食欲が無い高齢者の一例

先週あゆみ野クリニックの外来に、80代後半の認知症の女性が家族に連れられてやってきた。認知症は既に重度で、家族もその治療を期待して連れてきたわけでは無い。家族の心配は、最近その人の食事の量がめっきり減り、それにつれて活動性も下がり、寝てばかりいるという事だった。

正直最初私は、「うーん、もう90近い認知症だしなあ。これは認知症の末期なのではないか」と思った。このように、高齢の認知症患者がだんだんものを食べなくなり、そのうちすっと亡くなるという事が良くある話は、何時かも書いた。

その人は施設に入っているという事だったので、本人に直接訊いてみた。

「最近あんまり食べられないそうだけど、ご飯は美味しくないの?」

そうしたらその人が、

「そんなこと無いんだけど、最近食べると喉につっかえて」と言う。

ほお?と思いその人のお薬手帳をもう一度見た。ある心療内科が、レキサルティと半夏厚朴湯を出している。この心療内科の先生は、まだお会いしたことは無いが、その先生のところから私に来る患者さんが何人かいて、その人達の処方を診ると、漢方をかなりご存じとお見受けする。おそらくその先生は、患者さんが喉にものが詰まるという訴えをするので半夏厚朴湯を出したのだろう。

しかし私の目は、その先生が出していたもう一つの薬、レキサルティに止まった。レキサルティは非定型抗精神病薬の一つだ。抗精神病薬の中でもレキサルティもその一つである「メジャートランキライザー」は本来統合失調症の患者にしか保険適応が通っていない。しかし実際には認知症の人が精神不穏に陥るBPSDに対して世界中で用いられており、各国政府もそれを黙認している。と言うのもBPSDには通常の人が好んで飲むデパスのような「マイナートランキライザー」は全く効かず、メジャートランキライザーしか効かないからだ。

そこで私は家族に訊いた。

「この人は以前だいぶ騒いだり不穏になったりしましたか?」

すると家族は

「そうです。施設の環境になじめなくて、一時は大変でした」という。

なるほど。それでレキサルティが出されたわけだ。しかしメジャートランキライザーは一般に「錐体外路症状」と呼ばれる種々の副作用を起こす。錐体外路症状を疾患として起こしてくるのはパーキンソン病だが、メジャートランキライザーはまるでパーキンソン病にそっくりな副作用を起こすのだ。

レキサルティのような比較的新しい世代のメジャートランキライザーは古くからあるセレネースなどに比べれば錐体外路症状が少ない。しかしメジャートランキライザーが興奮を抑える薬理機序の本質がドパミンを抑制することにあるので、錐体外路症状はどうしても出てしまう。

これだ・・・と私は気がついた。

「最近のこの人は以前と比べてどうですか?」

すると家族曰く、「今はもう暴れる元気も無くて、ともかくご飯を食べなくてぐったりしています」。

なるほど、どうやら話が見えてきた。この人は何か食べるとものが喉に痞えるという。これは典型的な錐体外路症状の一つ、嚥下反射の低下を意味している。いくらレキサルティは錐体外路症状が比較的少ないとは言え、この90近い老婆にはそれがガツンと出てしまったのだ。

「そうですか。それではもうこのレキサルティという薬は止めた方が良いですね」と私は言った。高齢者認知症のBPSDに抗精神病薬を使う時は、必ず最低限の量を用い、BPSDが収まったら止めなければならない。しかし施設入所の人はこれが難しい。薬を止めようとすると、施設が困惑する。せっかくこの薬でおとなしくなってくれているのに、また騒がれては、と言うことになる。しかし抗精神病薬で嚥下反射が低下した患者にいくら半夏厚朴湯を飲ませても、効くものではない。今はBPSDどころではなく、完全にものも食わずぐったりした老婆にレキサルティを続けてはマズい。

もし私が漢方しか知らない医者だったら、食欲不振で元気がないのか、じゃあ六君子湯でも飲ませてみるか、と言うように、どんどん発想は明後日の方に向かってしまっただろう。また漢方を全く知らなければ、「90近いんだからもの食わないなら寿命だね」で終わってしまうかもしれない。

その心療内科の先生は、心療内科医としては私の到底及ぶところでは無い人だが、高齢者医療に於いて抗精神病薬をどう使い、どの様な副作用に気をつけるべきかについてはおそらく私の方が慣れているだろう。医者同士の仁義として申し訳ないとは思いつつ、私はその患者さんは今後私が治療することにした。もはや90近いのだから、治療するという事は最後まで看取りますという事でもある。

餅は餅屋なので、この先生には気が引けるけど、この方は今後私が診ていきます、と言って治療を全面的に見直した。レキサルティは止め、嚥下反射改善作用がある半夏厚朴湯は残し、抑うつ、アパシーなどBPSDの「陰性症状」に有効性が確認されている帰脾湯を加え、一方でコレステロールを下げる薬は止めた。90近い人のコレステロールを下げる意味は全くないからだ。また下剤がマグミットとセンナ系の「プルゼニド」と二つ出ていたが、プルゼニドのようなセンノサイド系の下剤は長く使うと耐性が出来てしまうので、思い切って止め、マグミットの量を増やした。結局、その人の処方は老年医学会が推奨する「五種類以下」にギリギリ押さえ込めた(湿布は別だったが)。なお嚥下反射が落ちている高齢者に二種類も漢方の粉を飲ませるのは大変だろうから、薬局に言って薬を飲むのを助けるゼリーを一緒に出して貰うことにした。

こう言う治療は、色々と専門知識が背景にあるのだが、保険点数としてはまったく評価されない。一言で言うと、「金にならない」のだ。この患者さんの「食欲が無く元気がない」原因を探り出すのにかれこれ30分以上は掛かったが、「レキサルティ止めました」だけだと診察料と処方箋発行料だけになってしまい、当院は潰れる。それで私は、いささか気は咎めるものの、「精神神経科」を標榜した。これだとこの人の「アルツハイマー病」という病名で、通院精神療法というものが取れる。精神科指定医では無いから若干安いが、それでも30分以上診療すると私でも一回につき3900円がもらえる。これも無いと、ちょっとこういう診療は続けられない。まあ初診の時は栄養状態を調べるという事で採血なども出来るが、毎回やるものではないし、食欲がないので点滴などと言っても保険診療では100円にもならない。通院精神療法を貰ってどうにかこうにか診療が続けられるのだ。精神科の先生には、潜りと怒られるかもしれないけれど。

https://www.ayumino-clinic.com

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