自己と他

ちょっと難しい話。自他の区別という事を考えます。



私は近々勤務医を辞めて開業します。開業したら他人を気にせず自分のやりたい医療をやれるようになる。まあ一面ではそうです。勤務医では病院の都合、大学の方針などに縛られますが、開業医はその点気楽です。



しかし開業医だからと言って、何でも自分勝手にやれるわけではありません。医療は規制の塊ですから、そうした規制は守らなくちゃなりません。開業したら銀行にローンを組むわけで、そのローンは返さなきゃなりません。スタッフ雇いますから給料払わなきゃならないです。結局完全に自分の思い通りだけで診療するなどという事は出来ないのです。



このように、人間は必ず他との関係性の中で生きています。関係性を完全に断ち切って「その人の己だけ」が存在するわけではありません。自分というのは常に他者との関係性の中にのみ存在します。



その人がその人自身でなくなる時。それは死です。しかし死がいつ訪れるのかも、実は曖昧です。一応定義としては死の三徴というのがあって、呼吸停止、心拍停止、対光反射消失というのですが、今では脳死という概念もあります。これは心臓が生きている死です。



人がいつ死んだか確認する作業が「死亡確認」です。基本的には医師が上の死の三徴を確認する事で死亡確認とします。脳死の場合は脳機能が停まった事を色々な方法で確認します。しかしほとんどの人が病院で亡くなっていた時代はそれでよかったのですが、最近は在宅でも死亡確認、施設でも死亡確認があります。こう言うケースでは、その人が本当に心拍、呼吸、対光反射が止まる時間と医師がそれを確認する時間に相当なずれが生じます。家族が「呼吸が止まったようだ」と考えて訪問看護師に知らせ、その情報がオンコールドクターに行き、医師が待機している場所から患家に行って死亡確認するまでに、通常数時間は間が空きます。あるいは、医師が一人でやっているクリニックや施設での死亡確認などですと、夜のことは翌朝に廻される例も多々あります。夜中医者が行けないので、翌朝確認すると言う事です。慣習的には「医師が確認した時間を持って死亡」とすることが多いのですが、生物学的にはおそらくもっと早くその人は死んでいたはずです。死ぬまではその人はその人そのものですが、死亡確認されたら遺体になります。生きている人は焼けませんが、遺体は焼きます。もうその人じゃないから、と言う事でしょう。しかしその生死の境は、これまで述べてきたように多様で曖昧なのです。



一方で仏教は「己を州とせよ」と教えます。この世は全て矛盾だらけで苦しみばかりだが、それを脱する事が出来るのは己のみだ、誰も他人が救ってくれるわけじゃない、と言うのです。もちろん後世の浄土真宗などは「ただ阿弥陀仏にすがれ、そうしたら成仏する」というのですから全く話は別ですが、もともとの仏教からするともはやあれは仏教ではない、と言わざるを得ません。本来の仏教は「自力本願」なのです。



しかしそうでありながら上に論じたように自他の区別は極めて曖昧なのです。極めて定義が曖昧な「己」。しかもこの世は「己を頼りとするしかない」。原始仏教や上座部仏教を考える上では、ここをどう統一して考えるかが重要な課題になってくると私は思います。

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