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「言葉」がない風景 (1)

先月末から、外国籍の子供への学習支援ボランティアをはじめた。
特に理由があったわけではない。たまたま友人とお茶をしていた際、「Iさん(私)は昔、海外に住んでいたんだよね? 外国で暮らすってどんな感じ? 言葉はどのくらいで覚えたの?」と聞かれた。話を聞くと、彼女は近所の方の紹介で4月から公民館で週に1回、外国人の子供達を相手に日本語学習のボランティアをしているという。

Bさん(友人)とは小学校の読み聞かせボランティアで知り合った。Bさんは日本語を教える資格を所持しているわけではないが、困っている子供を見過ごせず、すぐに見学に行ったそうだ。真面目で優しい性格の彼女らしい。

私は父の仕事の都合で、10~15歳までの5年間をアメリカ南部テネシー州で過ごした。ニューヨークやロスなどの大都市と違い、南部の小さな片田舎町に住んでいる日本人は、父と同じ会社で赴任してきた人達のみだった。当然、日本人学校はなく、私は現地校に通った。日本人は学校で私一人だった。Bさんの質問に「大変だったよ。特に最初の1年間はずっとトンネルの中というか、、でも少しずつ生活に慣れ、周りの言っていることも分かるようになり、話せることが増えていったような、、もちろん個人差はあると思うけど。」と返した。

外国で暮らしたことのある人なら想像できると思うが、「言葉が通じず、全く異なる文化の中で暮らす」というのは容易なことではない。それがたとえ留学など自ら望んだことだったとしても、だ。私の返答に対して、Bさんは頭の中で想像を巡らせている様子だった。

公民館では毎週水曜日の夕方、約10人程の外国籍の子供が日本語学習に来ているらしい。出身はヴェトナム、中国、スリランカ、ネパールなど多様である。私はこの地に30年近く住んでいる。年々外国の方が増えている印象はあったが、市の分館に集まる外国籍の子供の数が二桁であることに少し驚いた。通学している学校内で普通学級以外で日本語学習ができるのは20回のみ。それ以外は週1回、公民館で1時間半のみの学習しか確保されていない。私がアメリカに住んでいたときは週4回、ESL(英語を第二外国語とする生徒のための学習クラス)があった。多民族国家のアメリカに対し、日本は単一国家である。その背景を踏まえても、この差は大きすぎる。公民館に来ている子供達は普通クラスでさぞかし苦労をしていることだろう、と思う。

Bさんの話は続く。「彼らはどんな気持ちで日々過ごしているのだろう、、自分の子供(中学生)でさえ、授業内容につまずいているのに、授業以前に日本語が分からず、このまま高校受験などをできるのだろうか、、そして将来は日本でどのように暮らしていくのだろうか」。

滞在年数が長く日常会話ができる子、片言でも日本語を話す子がいる一方で、一言も話さないヴェトナム人兄弟のことをBさんはとりわけ気にしていた。日本に来たのは昨年末だという。無理もない。今まで慣れ親しんだ場所を離れ、全く違う環境、聞こえてくる言葉はさっぱり分からない。喩えるならば、別の惑星に来たようなものである。それに加えてのコロナ禍である。彼らの苦労は想像するだけでも心が痛む。それでもBさんはオセロを一緒にやってみたり、試行錯誤をしているとのことだ。彼らの身にそこまで心を寄せている彼女を私は素晴らしいと思った。

Bさんは私をボランティアに誘うつもりがあったわけではないが、私はその場に行くことが自然な流れのような気がした。奇しくも、ボランティアがある水曜日はちょうどこの日の夕方だった。

***

公民館に着くと、Bさんと人なつこい顔をしたスリランカ人の男の子が机を出したり椅子を並べ学習室を整えていた。続々と子供達がやってくる。私がよく餃子をテイクアウトする中華料理屋さんの姉妹も来た。彼女達は日本語を流暢に話すが、宿題にサポートが必要なようだった。小6のお姉ちゃんは「三権分立」をワークシートにまとめていた。3歳下の妹の方は、宿題の漢字ドリルが進まない。が、よくおしゃべりをする。学校の宿題に取り組んでいること、おしゃべりに夢中であること、それは彼女達の日本滞在歴が長いことを語っていた。

ふと学習室を見回すと、存在を消すかのように男の子が座っていた。誰とも会話をしようとせず、渡されたプリントを黙々とこなしていた。Bさんが気にしていたヴェトナム人の男の子Dくんであることはすぐに分かった。

今日は見学だけで遠目に見ていようと思ったのだが、私は気づいたら彼の隣に座り、話しかけていた。まずは日本語で「こんにちは」。そして ”Xin chào!Tôi tên là Iwasaki. (こんにちは。私の名前は岩崎です)" と私が唯一知っているヴェトナム語で挨拶をした。

が、・・・・・・まったく反応がない。

反応がないどころか、彼は目を合わせることもなく、話しかけないでオーラが全開。目下のプリントをこなすべく漢字をひたすら書いていた。
それは、渡米して間もない頃の自分の姿と重なった。

10歳で渡米した私は現地校で普通クラスにいた(前述のESL以外)。授業を理解することおろか、先生が言っていることはもちろん、周囲の同級生の会話など理解できるわけもなかった。放課後になり帰宅するまでは、終始孤独な気持ちだった。

慣れ親しんだ場所や仲の良い友達と別れ、新しい場所で暮らすことは国内においてもそれなりにハードルは高い。ましては国外へ移動することは、自分が築いてきた世界が一気に崩壊した、といっても過言ではないように思う。

アメリカの現地校に行った最初の日、私がメモ帳に書いたフレーズは 、”I want to go to restroom.” だった。それまでの充実した日本での学校生活が急転し、「トイレに行きたい」とさえ言えないことは屈辱な気持ちであった。それでも他に選択肢はないことを分かっているので、不登校にもならずに通った。帰宅後、やり場のないストレスからイヤイヤ期の幼児のように泣き暴れた。毎日のように「日本に帰りたい」と言っていた。中2の兄は寡黙な性格であったので暴れることはなかったが、ある日、彼の部屋の壁には大きな穴があいていた。英語で仕事をする父は苛々を母にぶつけ、家族全員から負のエネルギー放射を浴びていた母は、買い物することでストレスを発散させていた。

全ての海外赴任一家がこのようなパターンを辿るとはいえない。実際、英語が分からなくても、”Come on!" ではなく、「来いよ!」と日本語で周りを引き連れる強者もいたし、日本式弁当を奇異な目でみる周囲に対し、隠すのではなく"This is Japanese lunch!" と高々に披露する勇者もいた。

海外に行かずとしても、虐待やネグレクト、貧困など、また個々が抱える問題が現代社会では山積みだ。突如、自国が侵攻を受け、やむを得ず他の国へ避難する場合もある。我が一家の問題など苦労の部類にさえ値しないと思う。とはいえ、それなりに厄介で難しい時期ではあった。

渡米した1年目、私が通った小学校は公立であったが、「初めての日本人生徒」ということで手厚い対応をしてくれた。母が車の運転が不慣れであった初期は、校長先生が自車で私を自宅まで送ってくれたり、授業も小学校5年生のものでは困難と判断し、英語のみ1年生が学習するものをやらせてくれた。またベテランの先生が早朝5時からマンツーマンで英語を教えてくれた。私が早く英語を覚え、皆と同じように授業が受けられるように、との厚意であったのだが、先生の気持ちが強すぎて、私は心を閉ざしてしまった。
ある朝、いつものように彼女の教室に行くと、私は先生と目を合わせず、質問は一切答えず、ストライキ状態に入ってしまった。疲れ切った私は心を閉ざしてしまったのだ。(続く)

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