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いちごミルク味と父

先日、近所にあるカフェでいちごミルク味のかき氷を食べた。
子供の頃、父と福田屋の喫茶店で飲んだいちごミルクを思い出した。

父は私が物心ついたときから単身赴任を繰り返していたため、週末家に帰ってくる人だった。

世の中のお父さんは毎日家に帰ってきて、一緒にご飯を食べたり、お風呂に入ったりするのだろうけど、父は私が一歳の頃から単身赴任をしていたので、普段から家にいないという感覚は当たり前だった。

父の不在による責任感からか母は厳しかったけれど、基本的には優しかったし、兄は頼れる存在だったので、私は寂しいと思ったことはなかった。

週末に帰ってくる父は家族だけど、ちょっと他所の人みたいな感じがあり、私はどことなく他人行儀で遠慮する気持ちが常にあった。母の前ではわがままを平気で言えるのに、父の前では何を話したらよいのかさえ分からない。
家族四人でいるときはよいのだけど、二人きりになるとどのように場を取りつくろえばよいのか、私は心の置き場に困っていた。

そんなある日、父と二人きりで田舎町に唯一あった福田屋というデパートの一階にある喫茶店へ行った。

ショーウィンドウを見ながら、父は「なんでも好きなものを食べていいよ」と言った。
母とは喫茶店で何かを食べるなどはおろか、デパートからの帰りにジュースの一つも買ってもらえなかったので、私の心は踊った。
こんな身近に、しかも実の親が「なんでも食べていい」と言ってくれている。夢みたいだ。

ショーウィンドウに並んだ、アイスクリームが乗ったメロンソーダやレモンの輪切りが添えられたレモンスカッシュ、生クリームとさくらんぼがのったプリン。どれも堂々と立派な顔をしていた。

しかし、突然のことで私は選べなかった。というより、なぜかここでも父に遠慮する気持ちが働いた。一番高そうなのを頼んだらいけないかなあとか、子供なりに短い間で色々考えたのだと思う。

中々決められないでいる私の心を察してか、父は一番右上にあった「いちごミルク」を見つつ、「これにしたら? 美味しそうだ」と言った。私は父の言うままに店内でいちごミルクを飲んだ。

そのとき二人で何を話したのか、まったく記憶にない。
ただ、このとき過ごした時間は私の記憶の底にずっとあり、ふとしたタイミングで、たとえば今日のようにいちごミルク味のかき氷を口にしたとき、急遽、心の奥底から表面に顔を出してくる。

普段、家族とは会わずに高度経済成長期に単身赴任をしながら、がむしゃらに仕事をしていた父。どんな気持ちで、娘と二人きりで喫茶店でいちごミルクを飲んでいたかは知る由もない。父は三年前に他界してしまったし、そんなことを覚えているのはこの世で私一人だけだ。


「懐かしい」という感覚が私は好きだ。
懐かしいものは、大概好きという気持ちとリンクしている気がするが、そうとも限らない。
当時は好きという実感はなかったとしてものにも「懐かしい」という感覚は伴う。
違和感があったこと。ちょっと怖かったこと。いつも見ていたものや風景。
そんなことも後になって「懐かしい」という感覚を持つことは多い。
懐かしい感覚は、心がほどよくほぐされ、優しい気持ちになる。だから私は好きなのだと思う。

記憶とは、油絵の地塗りのように底深くに存在している。しかし、その上からいくつもの色が足され、見えなくなっていく。見えないけれど、それは確かに存在しており、今と縦の層で繋がり、ふとした瞬間、無意識に(もしくは意識的に)現在に浮上してくる。それはときに私の心の下で「今」をおぼろげながら支えているような気がする。

いちごミルク味のかき氷を食べながら、父と過ごした時間を思い出す夏の夕暮れだった。

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