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同じ方向をみること-藻琴山-

屈斜路湖の北側に藻琴山という名の山がある。
本来であれば、羅臼岳に挑戦したかったのだが、体力面など準備不足もあり、ガイドブックに「約1時間で気軽に登れる山。観光のついでに立ち寄るのもよい」とあったので登ることにした。

藻琴山の山頂は標高1000m。駐車場から見えていた高台は山頂ではなく、アップダウンの繰り返しや岩場もあり、山頂と思った場所が中継地点であったことが度々あり(笑)、気軽なハイキングというよりは中身がとても濃い1時間の登山であった。ヒグマももちろん出ることもある。山はどんなに登山時間が短くとも、標高が低くとも、舐めてはいけない。

緯度が北に位置する藻琴山は、ハイマツ、チシマセンブリやヒメシャジンなどの高山植物を見ることができた。途中、シマリスが登山道に顔を出したり、すでに紅葉をはじめている木々もあった(7月末)。眼下には屈斜路湖、山頂からは知床の山々やオホーツク海まで大パノラマが広がっている。実に充実度が高い山、それが藻琴山であった。

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家族三人で山を登るのは久しぶりだった。
息子が小学生低学年の頃は、多い時で月に2回は登っていたのだが、成長と共に頻度は減り、昨年は中学受験だったので、すっかり山から遠ざかっていた。

山はいい。
特に会話をするわけでもないのに、植物を見たり、写真を撮ったり、野生動物に出会うこともある。山頂を目指し、前をみてひたすら歩く。

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自宅にいるとこうはいかない。日常の雑務に振り回され、なかなか心は静かであってはくれない。心を静かにするためにはそれなりの努力がいる。 
しかし山にいると、私達家族3人を「自然」が一つにしてくれるような感覚がある。登山中も不毛であったり、つまらぬことを話したりする。日常ではそれが原因で不和になったりする類いのものも、山ではいつの間にか中和されてしまう。

親しい家族や友人との登山において、不和が起こりにくい理由として、山で私達は「同じ方向をみている」から互いの違いから生じる衝突や感情に寛容になれるのではないかと思う。同じ方向をみている、もしくは同じ景色をみているというのは、実はそこにはすでに暗黙の同意というか一体感のようなものがある。山の中で私達は一列、もしくは並列になって歩く。無意識に同じ行為をしている。もちろん各々が意識するものによって、目に入ってくるものや感じるものは違うだろうが、「山を登る」という目的において同じ方向をみている。

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普段、人と会うとき、私達は正面もしくは対角線上に座り、話をする。
おしゃべりは楽しい。しかし時としてカフェやレストランは心の逃げ場がない。もちろん話す相手や内容にもよるし、相手の正面を見て話すことが必要なケースも多いにある。
これを同じ景色を前に並んで話す形に置き換えるとどうだろうか。例えば、カフェであればカウンター席、電車の横並び席、自然の中であれば公園のベンチや川沿いの石段などだ。心は楽に感じる。少なくとも私はそう思う。それは同じ方向をみているからなのだと思う。

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並列歩行による会話で、今も忘れずに覚えていることがある。
息子が小学一年生だったときのことだ。理由を言わず「学校を行きたくない」と不登校を数日したことがあった。学校は苦しい思いをしてまで行く場所ではない、と私は思っているので無理には行かせなかった。ただ、理由を言ってくれないことがどうにも辛かった。今思うと、理由など聞かずにただ目を離さず見ていてあげればよかったのだと思う。が、まだ小学校1年目であったこともあり、私の胸は張り裂けそうだった。結果的に息子は私を安心させる適当な理由を言ってくれたが、自身の心を落ち着かせるために私は子供に理由を求めてしまった、と思った。これは子供の心に寄り添わずに、自分の心の安定を得るためにしたエゴである。

理由を言わずに家で黙々と絵を描いている息子を前にどう過ごせばよいのか心の置き場をなくした時、仲の良いママ友が「今から一緒に東川で犬の散歩をしない?」と連絡があった。東川というのは私の住むマンションのすぐ隣に流れている川である。お互いに犬を飼っており、散歩は息子が不登校の有無関係なしに行かなければならなかったので、人と会う気分ではなかったが誘いに応じた。

彼女は柴犬、私はポメラニアンを歩かせながら、川沿いを話をしながら歩いた。犬の散歩だから時間は20-30分である。途中にあるベンチに座ることもなく、私達はただ歩いた。戻る地点の橋が近づいて来る頃、いつの間にか私の滞留していた心は流れていた。何も解決したわけではない。ただ犬の散歩をしながら少し話し、歩いただけである。それでも私の心は軽くなっていた。

もしカフェで友人と正面で話していたら、そうはならなかったのではないかと思う。胸の内を言葉にし吐き出すことで、心はきっとすっきりはするだろう。でも、息子が学校に行きたくない理由や子育てについてあれこれ話し、考えをめぐらせ、無理矢理に結論を出そうとしていたように思う。その結果、「学校に行きたくない」という事実を受け入れずに、あれこれ無駄な動きをしてしまったのではないかと思う。友人は、「今日は忙しくて、お茶しながら聞いてあげられなくてごめんね」と言っていたけれど、川沿いを一緒に歩きながら、彼女は知らずうちに私の心に寄り添ってくれていたのだと思う。「数日の不登校で深刻になりすぎ」とか「理由はなんだろうね?」と詮索もせず、同じ子を持つ母親として「ただ一緒に歩いてくれたこと」が私にはとてもちょうど良かった。

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日々、目の前に起きることに一喜一憂し、心穏やかになかなか過ごせない私は、時には山の中で、また時には川の側で、可能な限り心を大らかに過ごしたいと思う。

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