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失敗からみえる風景

昨年末から友人や知り合い限定にお菓子屋さんを始めた。
中学生の頃から焼菓子を作るのが好きで、友人の誕生日にプレゼントしたり、人に会うとき「おやつにどうぞ」とお土産代わりに渡させてもらってきた。「美味しい」と笑顔が見られるのが何より嬉しくて、細々だが素人菓子を作り続けている。

自分の体力もキャパシティも分かっているので大量には作れない。種類も少ない。また毎回同じようにも作れない。が、知り合いに限定にするのであれば、「そんな肩の力が抜けた気楽なお菓子屋さんがあってもいいんじゃない? 家庭料理だって毎回同じ味じゃないのがいいんだし。」 と夫に言われて、やってみることにした。

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そんなわけで、秋が来たらシフォンケーキを届けたいなあ、と思い、今年の夏は何度も何度もシフォンケーキを焼いた。シフォンケーキは義母から結婚してまもなく教えてもらった大切なレシピ。この10年の間に何度も作った。義母から教えてもらったのはプレーン味と紅茶味。せっかくならば、私のオリジナルのものも加えたいと思い試作をはじめた。

何回失敗したか分からない。その都度、配合を変え、材料を変え、やり方を変え、試作を重ねる。シフォンケーキはとても繊細な焼菓子なので、失敗した様相はあまりに惨い姿になる。その都度、疲労と共に心が少し折れる。材料や生産者の方への申し訳ない気持ち。失敗したものは家族やご近所の方々に食べるのを手伝ってもらった。

義母が教えてくれた2種類だけでも十分すぎる美味しさがある。自分のオリジナルにトライするのは欲張り過ぎだ。もう1回やってうまくできなかったら、今秋にオリジナルを入れるのはやめよう、と思った。

そんな見切りの試作中、砂糖の計量を間違えていたことに途中で気がついた。明らかに多い。慌てて量を減らし、卵を追加し、微調整を図った。今回がダメだったら・・と思って臨んだものがまさかの計量ミス。できる限りの調整はしたけれどきっとうまくいかない、、オーブンに入れる前から、気持ちは暗かった。
が、できあがりはまさかの成功。少なくとも私の中で成功と呼べる納得いくものができた。ひょんなアクシデントから生まれたシフォンケーキがようやくできた。

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「間違えとか失敗とか、そんなところから良いものは生まれる」と聞くけれど、こういうことなのだな、と思った。科学者が「配合を間違えたらできてしまったのです」とか「偶然できたものがヒットした」なんということもある。もちろんそういった方々は私の比ではない程の回数を重ねているわけだけれども。

失敗は成功のもと。失敗しても決して諦めずに努力を続ければ、いつかは成功に変わるという意味だ。それともなんか違う種の必然性を感じる失敗。潔さとか切替えのような類いの作用が無自覚に働き、何かに導かれ生まれていくような感覚があった。

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そもそも「失敗=悪」「成功=善」という二極的な概念によって振り分けられるこの世のあり方はどうなのだろう。
失敗するとは、方法や目的を誤り、良い結果が得られなかったこと指す。つぶれたシフォンケーキは失敗作である。希望した学校に合格できず、不本意であった学校へ入学する。受験に失敗した、と言う。日々血がにじむような練習をしたのに試合で負ける。頑張っただけに悔しい。努力した分だけ辛いし、心は奥深く沈む。内容いかんでは現実を受け入れるのに多くの時間を必要とするだろう。しかしそれは本当に失敗であり、悪いことなのだろうか。

もちろん失敗が許されないとされる種のものもある。手術など人命が大きく関わっていることであったり、環境を大きく変えてしまうことであったり、、
四十代半ばで失敗を恐れ、「自分の限界はこのあたり」と線を引き、生きてきた私が偉そうなことはいえないのだけれど、命を失うことや脅かされるようなことでなければ、失敗はたくさんしていいと思う。重ねるほどに見える景色はどんどん広がっていく。成功体験と同じくらいに失敗体験は価値のあるものであり、心の筋肉を強くしていく。失敗を恐れる。失敗を未然に防ぐように大人が子供を案ずることが目につく昨今、むしろ失敗体験は成功体験よりも尊いといえるかもしれない。

失敗を恐れることは、慎重であることの証拠であり、悪いことではない。しかし、恐れる気持ちを大切にしすぎては、身動きがとれず心は不自由になってしまう。

人生も折り返しを過ぎたからこそいえるのかもしれないが、失敗はいい。失敗することによって見える景色も悪くない。晴れの日も雨の日もそれぞれの良さがあるように。失敗して見える景色は、長い人生において通過点に過ぎなく、次の新しい景色を照らす街灯のようなものだと思う。

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