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【岩田温大學】アウシュビッツの悲劇と日本

日独の同一視

 二十世紀の悲劇は数多いが、アウシュビッツの悲劇はその最たるものである。

「古代、進歩的思想という、もっとも広い意味での啓蒙が追求してきた目標は、人間から心を除き、人間を支配者の地位につけるということであった。しかるに、あますところなく啓蒙された地表は、今、勝ち誇った凶徴に輝いている」(アドルノ、ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』)
「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」(同右)

 狂気を目にした哲学者の絶望にも似た述懐といってよかろうう。

 進歩と啓蒙が楽観的に捉えられ、近代化が無邪気に歓迎される時代が終焉したのだ。合理化し、脱呪術化を遂げたドイツで、一民族を根絶しようと言う野蛮な狂気が具体化されたのだ。かつての単なる大量殺人ではない。極度に合理化されたシステムの中で、計画的に粛々と絶滅を目指した大虐殺が行われていったのだ。

 ナチスドイツの犯した世紀の犯罪は、世界史に類例を見ない蛮行であった。全体主義の狂気をまのあたりにしたアドルノ、ホルクハイマーといった時代を代表する哲学者たちが深い絶望の淵に立たされたことは疑いえない事実である。戦後に著された『全体主義の起源』(ハンナ・アーレント)、『僭主政治について』(レオ・シュトラウス)などの輝かしい名著も、この前代未聞のドイツの犯罪なしには書かれなかった書物である。深い絶望こそが、彼らに深く根底的思索を迫ったのだ。

 かつて、このドイツの大罪と日本の「戦争犯罪」を同一視する向きがあった。そして今もその誤解は存在し続けている。ドイツのヴァイツゼッカー大統領の「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」といった言葉を引用しながら、「南京大虐殺」、「従軍慰安婦」といった日本の過去の戦争犯罪に目を向け、謝罪と反省、そして個人補償を迫るといった論法だ。この誤謬は西尾幹二氏が『異なる悲劇 日本とドイツ』(文藝春秋)の中で、深い洞察を以って、完膚なきまでに徹底的に批判しつくしている。

異なる次元の犯罪

 西尾氏の論文の核心は二点存在する。

 一点目は、日本の犯罪とドイツの犯罪との区別である。

 日本が犯したとされる犯罪は全て「戦争犯罪」である。百歩譲って仮に「南京事件」が存在したとしても、それは「戦争犯罪」である。戦争遂行中、軍規の乱れ等から起こる犯罪であり、どこの国の軍隊にも起こりうる犯罪である。「従軍慰安婦」の問題に致っては、軍の強制連行が明確に否定されている以上、かつての「慰安婦」たちに対する同情はありえても、それは戦争犯罪として裁くことは不可能である。

 それに対して、ドイツが行ったユダヤ人絶滅政策は、戦争犯罪とは全く異なった犯罪である。ドイツは、ユダヤ人と戦争していたのではない。戦争中に、統治下に住むユダヤ人を次々と殺戮していったのだ。その政策は戦争の遂行という作戦上の観点に立てば、全く無駄だった。例えば、ユダヤ人を強制収容所へ移送するために費やされる甚大な労力、経費は軍需物資の輸送の際の大きな障害となったはずである。

 彼らが戦争目的に全く敵わぬ罪を犯した理由は、「人種」という似非科学に基づくイデオロギーの理念の実現のためであった。「アーリア人種の優越」という全く根拠のないイデオロギーの為せる蛮行であった。ユダヤ人のみならず多くのアーリア人種以外の異人種を殺したナチスドイ ツが、自国の多数の障害者、病人をも殺戮した根拠もまたそのイデオロギーにあった。彼らのイデオロギーによれば、アーリア人種は美しくなければならなかったのだ。アーリア人種としてふさわしくないと判断された多くの社会的弱者が殺戮されていった。

 イデオロギーによる大量殺戮。一人種の絶滅を願い、そしてそれを実際に試みたドイツの野蛮な犯罪は、戦争犯罪とは全く違う犯罪であり、これと類似するのは、共産主義というイデオロギーを狂信的に信奉し、一階級の絶滅を願い、ブルジョワ階級の殺戮を実際に試みたソ連や中共のような共産主義国家のみである。

 ドイツの蛮行は日本の戦争犯罪とは全く異なった次元に存在しているのだ。

 第二に、ヴァイツゼッカーは、単なる良心から過去のドイツの蛮行に対して謝罪演説を行ったのではない。彼の謝罪の真の意に目を向けようとしないのは愚かであり、それは危険なことですらある。

 ヴァイツゼッカーの謝罪演説によればナチスの犯罪は、あくまでナチスという、ならず者の組織の犯罪(「個人の罪」)であって、ドイツ国民全体の犯罪(「集団の罪」)ではない。すなわち、彼は国を挙げての狂気ともいうべきあのホロコーストの罪をナチスという一組織に押し付け、ナチスに加担してきた多くのドイツ人の犯罪、あるいは犯罪の幇助に対しては頬被りを決め込み、ナチス以外のドイツ人を「救済」することを試みているのだ。彼がドイツの「歴史の断絶」を強調し、ナチスを罵倒することによって、あたかもドイツ民族自体もまたナチスによる被害者であるかのごとく振る舞うことを可能にしてしまったのだ。ドイツ民族に罪はない。悪いのはナチスだけなのだ。むしろ、ドイツ民族とてナチスによる被害者なのだ。そういう大逆転が平然と行われているのだ。

 こうしてみれば、ヴァイツゼッカーの演説を「心の底からの謝罪」などと安易に解釈できないことは明らかであろう。

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