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「無視されてるやん」

先日、よく行く銭湯の脱衣所で髭もじゃのおじさんが壁の向こうの女湯脱衣所に向かって大声を出していた。

「バスタオルあるかー?なかったら貸すぞー」

壁の向こうからは一向に返答がなく、おじさんは何度も呼びかける。

「バスタオルあるかー?」
「おい、聞こえてるかー?」
「もう俺出ちゃうぞー!」
「いいんだなー?」

段々と声を荒げていくおじさんと、二人きりで同じ脱衣所にいた私はどうしようもなく気まずかった。服を一枚一枚着ながら、どうか壁の向こうの奥さん(だろうか)が早く応答してくれないかと祈っていた。

微笑みかけて「まだお風呂に入ってるんですかね」とか何とか話しかけていればよかったんだろうか、「湯冷めしちゃいますね」だとか気の利いた一言をかけることができただろうか。色んな選択肢があっただろうに、笑みを堪えて背景になったあの瞬間、何だかとても居心地が悪かった。



こないだ行った神戸の時計屋。久々に来た神戸で腕時計のベルトを替えてもらおうと知らない店に入った。店主のおじさんは、口調こそ荒いものの優しい人で手際よくベルトを替えてくれる。

「こんなんなる前にはよ見せに来なあかんで」

時計の修理を待っていると、隣で会計をしていた奥さんが大きな声で去っていくお爺ちゃんを呼び止める。

「ちょっと!1万円多いですよ!」

どうやら会計を多くもらい過ぎていたらしく、店内に響き渡る声で呼び止めるが、耳が遠いらしく声は届かない。目の前の店主が私に目を合わせて苦笑した。

「あのお客さん、ちょっとボケてきてはんねん」



学生の頃の友人同士での会話。大人数でいて、誰かが誰かに喋りかけてるのに、その相手にさっぱり聞こえてない様子の時、よく「無視されてるやん」と言って茶化した。それは面白いとか、面白いとかじゃなくて、そう言わなきゃ落ち着かないといった類の言葉な気がする。「無視されてるやん」と言われることで、彼は安心してこっちを向いて笑う。「無視されてるやん」と言うことで、私も救われる気がする。

それは、「届かない声」がそこにあり続けることの気まずさから逃走するための行為でもある。


子どもの頃、友達の家に遊びに行った時、家の電話が「プルルルル」と鳴った。小学生の頃の私はどうしていいか分からず、していたカードゲームを中断して、辺りをキョロキョロ見渡す。友達が二階にいる母親に「電話きとるよ!」と伝えた時、とても気が楽になったのを覚えている。

受け手がそこにいない電話の音を聴く時、妙に心がざわざわする。机の上の他人のiPhoneが、誰かの電話を受信してる時、我々は「電話来てるよ!」と伝える使命感に駆られる。アラームだったら、他の通知だったら、そんなことはないのに。


ボケている爺ちゃんに病床で話しかける時、なんて言えばいいか分からなかった。何を言っても、届かないんじゃないかと怖かった。親が側で見てる中、何を言おうにもなんかとても恥ずかしくて、「元気?」とか「久しぶりだね」とか月並みなことしか言えなかったことを、今となってはとても後悔している。


「届かない言葉」が「ただそこにある」ことから逃げずにいたい。それはとても奇妙で、グロテスクで、茶化さずにいられないようなもの。

歌を歌うことも、バンドの演奏をすることも、時にはとても恥ずかしいことだ。気まずいことだ。ただ、届かない言葉、それは銭湯にあがる湯気のようにその場所に浮かび続ける。そして、たまに予期せぬ誰かのもとに届く。

いつか届くからいいんじゃなくて、届くことを正解とするんじゃなくて、ただそこに「届かない声」があると言うこと、それ自体を認めたい。


あの時、聞いた「バスタオルあるかー?」は壁の向こうに届かなかったが、妙に心の中に残っている。

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