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知らなければ食い物にされ、知れば不幸になる

I'llです。
国際情勢は国内の状況を知るより、日増しに重要性が高まっています。
隣国の謀略の波が、国家を蝕んでいます。しかし、私がそれを知ったからと言って、何ができるわけでもありません。地元から消去法で、多少マシなレベルの議員に票を入れる程度のことしかできません。
自分が何ともできないスケールの問題は、真剣に悩むべきではありません。餅は餅屋という考え方は大事で、自分の手が及ばないことは、当事者である専門家に任せるしかありません。

とは言え、世の中に起こる様々な事象を知らなくて良い、と考えるべきではありません。
世間知らずであったり、盲目的に人を信用したり、裏のある情報をそのまま信じ込んでしまうことは、身の破滅につながります。

IT革命が起こる以前の社会は、マスコミの流す情報や世界観が世の中を構成し、多くの人が幻想を持って生きられた世の中は、確かに夢がありました。信じれば報われる、頑張れば夢が叶う、希望的観測のエネルギーに頼る生き方は、カラクリを仕掛ける側が潤う一方、ほとんどの大衆は、カラクリを知らないからこそ楽しめたのです。
私はその時代を知っているので、昔はみんな元気があったとか、平和で良かったと錯覚してしまいます。しかし、その頃の世界情勢は今よりもはるかに危険ですし、国内の汚職や犯罪は多かったはずです。私たちが情報統制されていることに安堵し、搾取システムにどれほど夢を見させられたのか、改めて考えてみるべきだと思います。

情報社会の現代は、ちょっとめくっただけで欺瞞と虚栄が見えてしまいます。世の仕組みを知り、情報を疑ってかからなければ、食い物にされ被害を受けます。反面、知らないからこそ平和でいられ、夢が見られる部分もあります。例えば、日本の国土が外国勢に買われていたり、偽造ビザで違法就労する外国人労働者と、彼らを利用する日本の経済システム、性犯罪と隣合わせの芸能界、知ったから何ができるわけではないが、知らないほうが気楽でいられたことばかりです。
知れば平和でいられなくなり、知らなければ危険になる、いつの時代も世の中はそうでした。アンテナを広げれば広げるほど危険を知り、危険を知ることで幸福度は下がります。
そのジレンマは、おそらく人類が存在する以上、取り去れないテーマです。生きる上では、バカで調子乗りでいたほうが絶対に楽しいのです。しかし、バカで調子乗りであればいずれ足元を掬われ、遅かれ早かれ破滅します。
それは、私たち人類が猪を追いかけていた頃から変わらない宿命です。
では、どうすれば良いのでしょうか?

私は、知識や情報の世界線と、現実で見て触れる世界線を分けて考えるべきだと思います。
例えば、日本に対して多元的に侵略してくる敵国があるとして、頭では一国民として意見を持つことは大事です。ただ、目の前に敵国に国籍を持つ人がいるとして、その人をどうするかは実際の状況で考える必要があります。そこに陰謀があるか、友好的になれるか、人として信頼できるかは、全てを一般化した上では判断できないことです。
私たち人間は、頭の中で起こる概念としての世界と、実際に目で見て触れる世界には隔たりがあります。そこを混同すれば、虚構を信じて世の中を掻き回すことになりかねません。頭の中の仮説としての世界と、現実で五感で触れる痛みと癒しのある世界は、永遠に不一致であるからこそ、世の中には正しさも間違いも、両方が存在するのだと思います。
そして、現実に起こることを無闇に一般化せず、情報に対していちいち主観を持ち込まないことで、世の中に起こることに振り回されずに済みます。

これからAIが人間の代わりに考え、答えを出すようになり、人間から思考する必要性が薄れていくと思います。しかし、答えを受け入れ判断し、行動するのは人間であり、そこにモラルや信念、決断力、行動力が、ますます要求されてくると思います。
そこに必要な判断能力は、世の中のカラクリを知り、情報の良し悪しがわかるかどうかで決定的に差がつくと思います。
何も知らない人間として楽しく生きるのが正解か、何もかも知っているからこそ厭世的に生きざるを得ないのか、それは個人が選択できる自由です。究極的には、信じるか信じないか、という心持ちの世界になっていくのではないでしょうか。
ただ、昔のように与えられる世界観に満足できない世の中になってしまうことは、もう止められないと思います。
人間が、人として生まれどう生きるべきか、それをどう考えながら生きるかです。

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