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多様性とは、嫌いなものを視界に入れないことである

I’llです。
近年、女性や性的マイノリティの方々の権利に対する議論が高まっています。
多様性のある社会のためには、そういった方々の人権だけではなく、その他の多様な人々の権利も守られるべきです。
しかし一部の議論は、多様性や権利の重要性を主張しながら、彼らが擁護したくないタイプの人々が、排斥されても構わないという言説に陥りがちです。
私はこの矛盾から脱しきれていないからこそ、日本のマイノリティへの差別や、人権の議論が進まないのではないかと思います。
よく人は「自分には関係ないから、それは世の中から消えても良い」と考えがちです。しかし時代が変わり、自分の置かれた立場が変われば、自分が消えても良いと思っていたものが、いずれ必要になる時があるかもしれません。
自分がある日、同性の人を好きだと気づいた時、破産して社会的保護を受けねばならない時、あるいは自分が差別してきたマイノリティに属すると気づいた時、自分が排斥してきた側の人間になることもあります。
時代も人生も、先はどうなるかわかりません。未来の自分の可能性を考えれば、多様な価値観、多様性のある社会であったほうが、セーフティネットに救われる確率も上がるのです。

私は、多様性と排斥は相容れぬものだと思います。例えば犯罪者は、刑罰を受け収容されるべきです。これは「犯罪を起こす人」の社会的排斥ではありますが、法治国家の社会秩序には必要な制度です。しかし社会的マイノリティは、犯罪とは直接的な関連がありません。むしろ、社会的マイノリティが幸せになれる社会は、保護や支援制度で助かる人が大勢いるはずです。
しかし、議論の場では権利の主張ばかりを肥大させ、他者を排斥しても良いという話をする人がいます。彼らには「自分は絶対にそうはならない」という思い込みと、自分がそうなるかもしれない想像力の欠如があります。自分の思想的正しさのために、他者が犠牲になるのは厭わない言説は、結果的に多様性を否定しています。

私は以前、同人活動をしていたので、多様性については一家言あります。
同人活動におけるジャンルは、ほぼ宗教戦争のようなものです。自分のジャンルを盛り上げたい作家は、他ジャンルに対して寛容であるとは限りません。むしろ、解釈や性癖の違いでいがみ合うこともあります。しかし、互いのジャンルを潰し合ってしまえば、大元のコンテンツそのものが衰退してしまいます。
それでも同人文化の多様性が成り立つのは、いくら自分が嫌いであっても、違う価値観の人たちがいるのは仕方がないし、自分が不愉快にならないためになるべく見ないようにする、という考え方の習慣があるからです。
人間が好き嫌いあるのは当然ですし、どうしても許容できないものもあります。私は納豆がもの凄く苦手なんですが、近所のスーパーにクレームを言って納豆を撤去させても、近所の人たちが納豆が買えなくなって困りますし、スーパーも品物が売れず困りますし、いずれにしろ全国で納豆が流通するのは止められません。自分の視界に入らないように環境を変えたところで、自分が目を逸らせば良いだけだった状況は変わらないのです。

多様性とは、他人との異なる性質を肯定することではなく、異なる性質を否定しない、ということだけで成立するものです。確かに、全く価値観も世界観も違う人の言動は、不快に感じるかもしれません。ただ私たちがするべきなのは、いくら不快でも嫌いであっても、全く異なる人に攻撃したり、排斥したりせず、黙って遠ざかることです。そして「そういう人たちがいても良い社会」であるのが理想であり、それが結果的に未来の自分を救うことになるのです。
だから私は、無闇矢鱈と考えの異なる人へ議論をふっかけ、論破して黙らせるようなことが社会にとって良い影響を与えるとは、どうしても思えません。
自分が正しいと思えば、間違っていると思う人もいるでしょう。しかし自分の正義のために、様々な考え方や生き方をしている人たちを否定することは、最終的に窮屈な社会を生み出すだけではないかと思います。
それこそ、多様性のある社会にとっては真逆の進歩です。本当に多様な社会のためには、自分と違う価値観や考え方を、否定せず排斥しないことだと思います。

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