見出し画像

失敗を認めることは成長の証である

変化の時こそ、焦らないのが大切


I’llです。
変化のタイミングというのは、あると思います。
私に急な内面の変化が起こる時は、体がどこも不調はなく、疲労も少なく睡眠もしっかりとっていて、メンタルも特に不調はないのに、物事に気持ちが何となく入っていかなかったり、いくら寝ても眠かったりすることがあります。しばらくは原因がよくわからず、生活にも仕事にもあまり支障はないレベルで愁訴感が続くのですが、どこかのタイミングで急に考え方が変わったことに気づくのです。
その状態を初めて経験したのは2021年の秋で、仏教の本や自己啓発の本を読み漁り、自分自身に変化が起こることを期待していた時期です。それから数回同じようなことがあり、私が成長を感じる時は、だいたいこの謎の愁訴感を経験した後でした。
私は学問的に正しい見方ができていると思っていませんが、体感的に脳が一定のリソースをどこかに費やしている感覚、これは無意識の書き換えが行われているように思えてなりません。
この通過儀礼を越えた後の意識は、やはり発想の根本にある価値観や理由づけが、以前とは全く違う根拠に根づいているのを如実に感じます。
なぜこのタイミングなのか、というのはいつも不思議です。いずれかの条件が整えば自然発生する現象なのかもしれません。何となくモヤモヤするし、何をやっても気持ちが入らない妙な時期は、確かに不愉快なものです。しかし、私はこの状態になった後は、急に視界が開ける瞬間を必ずと言っていいほど体験してきました。ですから、横になっていた方が良い時期もあると私は思います。

後悔に対するフォローの仕方

成長した後ほど、過去の自分の仕事や言動を客観視したり、周囲の環境や時代を俯瞰して、何を反省すべきか理解できるようになります。
過去の甘さや失敗は、きちんと向き合うほど後悔になりやすい側面があります。ただ、それは正解がわかる今だからこそ、回答の間違いを答え合わせできただけに過ぎません。
私は今もなお、「ああすれば良かった」と過去を振り返っては自分のバカさを恥じています。その気持ちはどうやっても拭えないものですが、私はこう考えるようにしています。

もし人生が資格試験ならば、正解を知った時は合格した後です。これからプロフェッショナルとして社会で活躍することは、人生において過去を反省し、本質に気づいてからの生き方と同じものではないか、と。つまり、定期試験で赤点をつけまくっていた時期はまだ世の中や人生を学んでいる最中で、人生が本格化するのは生き方としての正解を知った後なのかもしれません。
いい歳の大人たちは、若くて綺麗でハツラツとしていて、希望と野心に満ちていた10代、20代が人生のピークだと考えがちです。ですが、人生80年の大半はおっさんやおばさん、爺さんや婆さんとして過ごすわけです。そのスパンの比率の違いは、飛行機の離着陸にかかる時間と飛行時間の長さの比と同じくらいです。
未熟で失敗ばかりをして、それでも熱かった青春時代は、確かに魅力的で夢のようだったと思うでしょう。ですが、世の中をしっかり見通し、人として背筋を伸ばして生きることを覚えたからこそ、大人になってからの方が本番だとはっきり言うことができるのです。
年寄りほど若い人が羨ましくなるものですから、若者が年寄りをバカにしても、年寄り自身が年寄りはダメだなと思っていたりもします。ただ、やはり人生経験や総合的な知識量は若者に比べて歴然としていて、いくら謙遜しても差は生まれてしまうものです。
おじさんやおばさん、爺さんや婆さんでいることは恥ずかしいと思われがちですが、もっと胸を張って良いと思います。未熟さに憧れるのではなく、成熟さを尊敬する価値観が根づけば、世の中はもっと良くなるのにな、と思ったりもします。

失敗を認めない大人は痛々しい

過去のやらかしを思い返すと、穴に入りたくもなりますし、掘り返されたら死にたくもなります。
それでも、失敗を失敗と受け止めることは、失敗を否定し逃げ回るよりもずっと勇敢であり、高貴な行動だと思います。
私の中学生の頃の先生は、昔小説家になりたかったがなれなかったから自分は今教師をしている、夢を叶えるためにがんばれ、と生徒の前で話をしていました。その先生が看板屋さんになりたかったとか、画家になりたかったとか、色々と昔の夢を話していた記憶が頭の隅にありました。色々な夢を諦めて仕方なく教師をしている、という言い方は腑に落ちないというか、中学生の私の心に引っかかったのを覚えています。
私はこれまで色々な大人とつき合いがありましたが、痛々しさを感じてしまう大人は、自分の失敗をさも災難のように語り、あるいは成功しか語らず、酒を飲んで酩酊しつつ話を美談にすり替える人たちです。彼らは普段から威張っていますが、酒を飲んでも自分に正直になることがありません。心の底から自分が失敗した経験を認めていないのです。もし自分が意のままに成功だけしてきたとすれば、私と割り勘で1480円の飲み放題を注文していたでしょうか?その驕りの背景には、どうしようもない劣等感が見え隠れするのですが、本人は疑うことがないので、死ぬまで気づかないのでしょう。
大して突き詰めることなく、まともに反省せず、息をするように諦めたことを美談にされても、足元が見えて興醒めしてしまいます。同じように、失敗や勘違いを変に歪曲されてしまうと、人格そのものが歪んで見えてきます。自分が本気でそう思い、他人から客観的に見てああこの人はおかしいんだな、と思われる分には問題がないのかもしれません。しかし、その歪みを表に出して人に売り込むのは、売られた側からすると迷惑以外の何ものでもありません。
メンツや権威が大事であればあるほど、失敗や未熟さを認めることは恥とされます。彼らからすれば、自分が弱いと言うようなものだと感じるのでしょうが、明らかな間違いを間違いと言えないような価値観では、大勢の人から賛同や信頼を取りつけるのは困難です。
明らかな間違いや失敗は潔く認め、事実を詳らかにし、きちんと反省したり謝罪するからこそ、数多の失敗を経ても長期の信頼を築くことができます。自分にとっても他者にとっても、真摯であり誠実であろうとするからこそ、ちゃんとした一端の人間だと認識してもらえます。もしそれが疎かになるとしたら、いくつになっても足元を見られ、疑われながら生きていく人生を歩むはずです。
だから失敗や間違いは、どんなにカッコ悪いと感じたとしても、隠さず誤魔化さないが逆にカッコよく見えたりします。相手が子供ならともかく、最初から最後まで完璧な成功しかなかったと言う人間を普通の人は本気にしません。
むしろ、具体的に何をどう間違い、これをこうだと考えこうすることにしたら上手くいった、と真摯に教える人は、その経験の価値を人に伝えることができます。そのノウハウがこれからの人のアドバイスとなり、社会全体に対して良い影響を与えます。その失敗を語ることが自分の評価を貶めるように見えながら、実際は価値を高める行動につながると私は思います。

失敗を語れば、「頭が悪かった」とか「弱かった」と自分でマイナスのイメージをつけるのではないか、と思われがちです。しかし、社会に生きる誰もが脛に傷があるのに、それをひた隠す風潮が社会全体に失敗を許さない空気を作り出しているのではないでしょうか。
私は間違ったことをしてきましたし、今まさにやっている間違いもあります。それこそ、間違いを間違いと認めなくなれば終わりだと思います。
あらゆる変化の中で、己の過失を知ることが成長です。その過程は恥ずべきものでも、後悔すれば済むものでもないはずです。
あくまで、自分や他者に正直であることが、私の理想です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?