見出し画像

良作を生み出すためのセオリー

自分の作品の悪い部分に気づく



I’llです。
7月末に一仕事を終えてから、自分の仕事のやり方を見直し、セオリーを破壊して一から手順を組み上げているところです。
これまでの慢性的な長時間作業を一切やめ、こまめに休憩して体をケアしながら、ガッと集中するサイクルに変えました。これはやってみなくてはわからなかったのですが、2倍集中すると疲労の蓄積も2倍になるようで、結局は疲労の総量自体はあまり変わっていません。それでも、脳や神経や体に蓄積されるダメージはだいぶ軽減されています。
最近、石膏デッサンを習慣づけていますが、絵に対して奥行きのイメージや創意工夫がしやすくなってきたのを感じます。正直に言えばデッサン自体は退屈でつまらないものですが、朝にやると一日の仕事の精度がかなり向上します。
問題は、石膏デッサンをやるとかなり疲労を感じることでしょうか。素描を仕上げてからウォーキングを1時間した後、シャワーを浴びて朝食を摂った後は、一日の3分の1くらいの疲労を感じ、だいぶヘトヘトになります。
慢性的に仕事をしていた時は、常にスイッチがオンになっていたので、限界が来るまでやる気が途切れることはありませんでした。まあ、そんな無茶をしていたせいで自律神経失調症に陥り、免疫力が著しく下がって妙な風邪を拗らせることになりました。
その反省から今のライフスタイルを始めようと思ったわけですが、逆に余裕を作ると気持ちがあっちこっちに行って精彩を欠く要因にもなり、課題は多いように感じます。

この期に三度頓挫した自主制作の漫画を見直して、改めて「つまらない」と感じました。
成人向け漫画なのでストーリー自体に変哲はありませんが、特にコマ割りとページの画面構成に問題が多いと思います。
だいたい凡作や駄作が出来上がる時は、自分の作品を全く客観視できていないケースがほとんどです。クリエイターは皆がみんな、自作品を客観的に見られるわけではありません。自分の作品は良く見えるものですし、今のやり方を疑うことも苦手です。明らかにトレンドや常識に外れているようなことを無自覚にやってしまうのが、制作における鬼門だと言えます。
私はその客観的評価がすごく苦手なほうでしたが、「悪いものは悪い」と思える勇気を持てるようになったため、ようやくどうすれば良くなるかが具体的にわかってきました。
私もオタクの端くれ、見ていて良いと思える作品や、なんか違和感のある作品も見分けはつきます。その品評眼が自分の作品にだけ向けられないのは、ちょっと意味がわかりません。だから一オタクとして見てみれば、「ああ、これはお金出すほど欲しくはならないよな」とはっきり認識するからこそ、かなりシビアに考えざるを得なくなります。

人の心がわからなければ、人の心は掴めない

私は、小手先でアプローチの角度を変えることが創意工夫であると思い込んだり、魅力ある作品にするための手段が、知名度のあるコンテンツに寄せるやり方を「売れる」ための方法論だと考えるのは、間違いだと思います。
ニーズは市場の生態系を認識し、何の価値が高く、何が必要不可欠な要素なのかを見極めなくては掴むことができません。
例えば、池の中の魚にやる餌は、池の環境に組み込まれた食餌の手段があれば見向きもされませんし、魚が食べられるもの、食べたがるものを与えなければ無駄です。仮に大枚をはたいて高級フルーツを放り込んでも、魚にしてみればいい迷惑です。
こういうことが、創作の世界でわりと良くあることだったりします。娯楽の少なかった昔なら、どんなに玉石混交でもコンテンツとして成立するだけで有り難がられたのでしょうが、カンストした傑作がゴロゴロある現代において、飽和した食環境にアプローチするのは簡単ではありません。そのわりに景気の良かった頃の感覚を引きずり、適当に構えてやってしまうと予想した以上の反応を得ることは当然できません。
「やること自体が目的」となったクリエイターは、自分がやり切ることが最高の価値となり、生態系の存在を軽視し、自己満足に後づけして得られる利益に過度な期待をしがちです。
「自分のやることには価値がない」というシビアな認識に到達することができないため、か細い反応に一喜一憂しながらルーティンに依存し、だらだらとモチベーションを下げていきます。
クリエイターのこのような思い上がりは、最終的に致命的な状況を招くことになります。だからこそ、市場をよく見て人の流れを把握し、社会の雰囲気や心の機敏に寄り添う必要があるのです。
私は、人の心がわからなければ人の心が掴めないと考えています。より評価を求め、もっと売れるために数字を眺め、理論的に小手先で切り口を変えただけでは、人の心は動かせません。もっと根本的な部分で、自分のやりたいことと世の中の雰囲気の交わる場所を探し、そこに生きる人々とコミュニケーションを取るからこそ、あらゆるサービスは血の通ったものになります。
他人を軽視し、自分が中心だと思ってやる行為は、大抵の場合ありがた迷惑です。創作は苦労が伴うものですから、自分が少しでも身を削って作った作品が見向きもされなければ、急激に自信を失い世の中に恨み節を放つ人もいます。かつての私がそうでした。
自分のやることにはそれほど価値がないことを認め、どうすればより価値が高まるのか、そのために人の心の機微を見て、自分が何をするべきなのかを判断し、そこから始めるのがセオリーなのだと思います。
どうやってもうまくいかない時期はあります。その時は、自分のことしか考えておらず、あらゆるものを見逃しているケースが多いのです。
そのことを再確認する機会が最近あって、私の方向性を改めて見つめ直しては、よりステップアップする必要性を感じました。

良い作品を作るためにエゴは不要

自分の作品を改めて見直してみて、わかりづらい、意味がわからない、表現が足りていない、全くそう伝わって来ない、そういう部分が作品を致命的に悪くしていると感じます。
私はたまに「やらかし作品」のリサーチをするのですが、私の作品と共通する面もあって、見につまされることが結構あります。
某ゲームを実際にプレイしてみて感じたのは、ユーザビリティを考慮しないシステム、妙なこだわりの演出、単純に不快な動作、意味のわからないご都合シナリオ、そういった制作者の思い上がりが致命的なほどダサく、作品の質や没入感を著しく損ねているということです。
作品は、作者がユーザーをどう見ているかが如実に現れますが、それに対して作者が最も鈍感なのです。人を見下したり、高慢さを覗かせた時点で鼻につくものとなり、クオリティが伴わなければ憎まれる作品になってしまいます。
だから、自分の作品に対して誰よりも正直なユーザーの視点を持たなくてはならず、もし自分の作品をフィルター越しに眺めるとしたら、勘違いした作品になりがちです。
その認知の歪みにいち早く気づき、修正することができる作家ほど、やはり良いものを作ります。それができるのは考え方や信念、生き様に明確な軸があるからだと思います。それを才能と言う人もいるかもしれません。こういうある種の謙虚さは、誰でもできるものではありません。
良い作品を作るためには、「自分は特別である」とか「自分のエゴを貫く」というような思想は、最大の妨げになるような気がします。正しい心持ちで創作に当たるべし、と言うならただの精神論ですが、こう言ったある種の合理性を含んだ方法論は、良作を作る上で不可欠に思えてなりません。
腐った人間性、腐敗した組織、そういったものから生み出されたコンテンツは、やはり中身を伴いません。私は精神論を説きたいわけではないですが、認知の歪みは創作にとってかなりの悪影響をもたらし、そこを礎にした創作物は当然価値の低いものになります。
私はそれを身をもって知っているからこそ、クリエイターにとって事実を正しく認識するのは、何よりも重要なことだと思っています。
だから日常を生きる上でいつも背筋を伸ばし、性格が悪くならないように気をつけるのも、わりと大事なのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?