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ポリコレが流行らない理由

I'llです。
今のエンタメ界をじわじわと侵食する、ポリコレへの配慮は、一過性の現象であると思います。
ポリコレは、性的マイノリティや被差別的な人種を持ち上げることが正義であり、正義のためにはエンターテイメントの本質が歪められても構わない、とする姿勢のように見えます。そこには、マイノリティに日の光を浴びせていると自覚する特権者の、傲慢さと根底にある差別意識が垣間見えるのです。
ポリコレは、トランスジェンダーや太った人、被差別人種、そういった迫害されやすい人たちをエンターテイメントの主役にし、政治的正しさを持って表舞台に立たせようとします。彼らが銀幕や舞台でスポットライトが上がること自体が、決して問題なのではありません。ポリコレが大衆の感性や審査のプロセスを無視し、社会的に攻撃されがちな人たちを利用し、露骨すぎるやり方で正義を主張するから、多くの人が納得できないのです。
私がポリコレの波がいずれ終わると見ているのは、政治的正しさの概念をエンターテイメントに捩じ込んだ結果、制作側の事情が見えすぎていたり、またシナリオが破綻していたり、多くの観衆が心から感動できず、事実上の興行の失敗に繋がっているからです。

人間は、やはりどうやっても「良し悪し」をつけ、「区別」してしまう生き物です。それは、人間だけの機能ではなく、猫もカラスも、わざわざ腐った水を飲みには行きません。女子トイレも、男子トイレと別れているからこそ、事件や危険性を抑止できるのです。「区別」は認識上の機能であり、それは社会通念に基づく「差別」とは全く異なるものです。
ポリコレは、自分たちで「劣った人たち」を見つけ、わざとレッテルを貼りに行き、彼らにスポットライトを浴びせ、評価の場を与えていることに自分たちの正義を見つけます。しかし、社会的な価値観は、エンタメの世界だけで修正しようとするから、歪になるのです。
もっと大事なのは、社会的に責められやすい人たちの権利と、自由を保障する環境を作ることです。それは、エンターテイメントだけが先鋭化しても実現しません。むしろ、そのプロセスが共感できないやり方をしているからこそ、大衆の意識も変わらなければ、理解もされません。

ポリコレが批判される大きな原因は、プロモーションが強引で露骨すぎるからです。理念としては素晴らしいのに、短絡的なやり方をするから粗が目立ち、人々を納得させられないのです。
エンターテイメントという、多文化と多様な価値観の集合体で、なぜ弱者救済のコンセプトだけが受け入れられないのかを考えると、ポリコレを支持する制作者が、観衆を納得させるための下地作りと、シナリオの成熟度を軽視し、理念が素晴らしいのだから黙って賞賛するべきだ、という傲慢な態度をとるからです。
「正義」のためなら大衆は賛同すべきである、という姿勢は、ポリコレによって槍玉に挙げられがちな人々のことを、むしろ変な色眼鏡で見るようにしてしまうのではないでしょうか。

今の世界を見る時、「正義」のために「善悪」や「良し悪し」の判断を蔑ろにしているからこそ、社会や国際情勢において歪みを生じさせているのではないか、と私は思います。
時代がどう変わろうと、やはり希少なものは価値が高く、人が害を受ければ悪であり、尊重されることはやはり善なのです。その感性を歪めて、共感を得ない「正義」を押しつける行為さ、現在世界の平和を脅かしている、独裁国家のやり方と何が違うのでしょうか。
一人ひとりが尊重され、自由の権利を行使し、それぞれが幸せをつかむチャンスを得られる社会は、「政治的正しさ」ではなく、人々の善悪に対する共感と、法治体制から生まれるものです。その前進と維持のためには、何よりも人々を説得するためのプロセスを、軽視してはならないのです。



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