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「自分」という山を登れ


他人の意見を気にしない



I’llです。
最近、日常を送ることがかなり楽になったのを感じています。別に生活水準が上がったわけではないですが、心持ち次第でこんなに変わるものかとびっくりします。
心身の健康は、おそらく充実した人生を送る上での元栓であり、常に病んでいたら美味しいものも味わえないわけです。そういう意味で、健やかな生活は心に余裕を生み、あらゆることに喜びのアンテナを張ることができます。
まあ人様から評価されたいとか、世の中が不穏すぎて不安だという気持ちもあります。けれど私の目の前に脅威はなく、柔らかな風が吹いているだけです。目に見えない心配事に狂っても目の前の現実が疎かになるだけです。自分の足元をしっかり歩くこと以上に、物事を良くするための行動はないのかもしれません。
人様の価値観に左右されることもありますが、気にしても気にしなくても自分がやるべきことの価値は変わりません。だから、下手に視線を気にせず、図太くやるのも賢さのうちだと思っています。

己を知るには経験が必要

私は過去を思い返す時、どれほど他者の価値観に憧れて行動していたのかを反省します。
他者に影響を受ける時は、自分の価値観よりも優れていると感じるからです。憧れに従い、夢中になっているうちは「あの人のようになれるかもしれない」と夢見心地なのですが、自分と憧れの人との差を悟った時、それは幻想だったと気づきます。
私は若い頃、元XJapanのhideに憧れ、音楽の道を志したことがありました。私は生まれ持っての三枚目というか、カッコつけられるタイプの人間ではないと悟った時から、自分にはもっと似合う自己像があると感じ、それを探してきました。
若い頃ほど日替わりでやりたいことが変わりましたし、かなりフラフラした子でした。それでも、本当にやりたいことがわからない自分に悩んでいましたし、何をやっても打ち込めない集中力のなさにも悩んでいました。
今思えば、自分の心の声と向き合い、自分がどういう人間であるかがわかれば、もっとフラフラせずに生きられたでしょう。しかしそれには経験が必要で、自分が思った通りの人間ではないこと、自分には向き不向きがあり、得意不得意は何なのかをしっかり知る必要があったのです。未熟な子供の頭でいくら考えても答えは頓珍漢で、正しく理解するためには痛みのある現実を見ることも大切なことだったように思います。
自分の身の丈がわかり、よく己を理解できれば、自分ではない他者に生き方を依存せずに済みます。無理に自分に不可能なことを望む必要がなく、だから無謀さと挑戦を履き違えることがありません。自分の軸で生きることは、下手に他者と比較したり他者と優越で競うこともなく、自分のやりたいことを最優先で生きることに繋がります。その生き方は、人からマイペースだと誹りを受けたとしても、全く気にならないほどの充実感を得ることができるのです。

物真似でヒーローにはなれない

「私」という存在は、誰かが考えて作り出したものではなく、自分自身ですら設計した通りにはできていません。
生まれや時代や家庭環境や経験、学習した内容、その無限大の要素が絡み合って今の自分がいるはずです。
成功した目印のような人に憧れたら、一挙手一投足を真似し、それっぽい思想に近づこうとします。しかし、ヒーローとは生まれ育った条件も、目指した目標も違うはずです。だからどう真似しても違う結果になるのは必然です。
人として生きるには対症療法だけがあるだけで、反証可能な理論があるわけではないのです。全てが複雑かつ唯一の条件によって決定されるならば、自分が良く生きるための方法も個別具体的なものになるはずです。
「あの人はこうやってうまくやった」と気づけば、自分も追従したくなります。けれど、同じようにやってうまく行くとは限りません。それには先行者利益とか、タイミングや微妙なニュアンスが強く影響するからです。
そう考えれば、他者の編み出したフォーマットに全てを賭けるにはリスクがあります。他人が用意した山は登りやすく、安全で簡単に人を追い越し、頂上に行くこともできます。しかし、誰かが山を切り崩せば意味がなくなりますし、遠目で見ればさらに高い山が無数にあることに気づくはずです。
他者の作り出した成功像に魅了され、もし人生の大部分を費やしたとして、いずれ本心から納得することができるのでしょうか。その時にわだかまりを感じるとすれば、それは最も不幸なことではないだろうか、と私は思います。

「自分自身」という山を登る

私が「りんごは赤い」と言えば、「青いりんごもある」とか、「そもそもりんごは青い」とか、「赤いりんご派に媚びている」という批判を喰らうでしょう。
私が自分の思想や立場や文脈で話したこと一つひとつに揚げ足を取られても、そのことをいちいち気にしていたら何もできません。
何をやっても批判されますし、何もかも間違いだと言われてしまうのですから、自分が正しいと思うことをやる以上の結論は出ないはずです。
この世に絶対的な正義はありません。誰もが自分が正しいと思う言動で誰かが傷つき、誰かが苦しんでいるからです。豚を殺さなくては豚肉が食べられないように、人に迷惑をかけず行動することはできません。
どうせ批判に晒されるのは明白なのですから、自分の判断に従って行動するべきです。そして安易に間違いを起こさないために、全身全霊の知識と感覚で最善の選択をしていくことだと思います。
他者の意見や判断に依存すれば、失敗の主体が移行し、他責の感情が生まれます。そうやって生まれた憎悪ほど救いようのないものもありません。だからこそ、自分が判断をするということは大事です。
旧約聖書のノアは、神の啓示を受け方舟を製造する際には、人々の嘲笑を浴びたとされます。
人は、常に自分以外の他者を批判したい生き物ですし、それに構っていてはことを仕損じるはずです。聖書に学ぶことは、己を信じるから大業が成し遂げられるということです。
目隠しをして山を登ることはできないように、全ての判断を人任せにしていては、進むことすらままなりません。その山がもし他者の作り出した環境なら、ガイダンスに従えば登頂も可能でしょう。しかし、本当の山はアスレチックではなく、命の危険を伴うものです。
自分自身という心の中にある山は、いつも見通しの効くものではありません。道はなく空気は薄く、いつ滑落したり遭難してもおかしくありません。しかしその山を登ることに目標があり、喜びを感じるなら、アスレチックの山はあまりに退屈に見えるはずです。
もし競う相手がいるとすれば、それは理想の自分と過去の自分です。常に比較対象が自分であるということは、限りなく同じ条件でライバルと競り合っているのと同じです。だから、自分に嘘をつく意味はなく、正直に己の実力を見つめることができます。
その行程があまりに過酷なせいで、大抵の人は山を降りて安全な道を探そうとします。しかし、本当に充実した人生を望むならば、既成の山をリフトで上がりきっても満足はできないでしょう。

どれだけとかやく言われようと、間違っていると思えば訂正すべきで、最善だと思えば簡単に曲げることはできません。その判断は自分がするものです。それが今を生きるということで、いずれ間違うとしても自分にとって最善の選択をしたと思えるなら、後悔はないはずです。
絶対に正しいことがこの世に存在しない以上、どう後悔なく間違えるかだと、私は思うのです。

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