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ボランティアスタッフさんたちのきゃいきゃい眺めてストレッチ

アラームより早く目が覚めてホテルを出、名古屋駅のコインロッカーに荷物を入れ、モーニングを食べれそうな店を探すがどこも人が多く諦めて一宮に向かう。
昨日に引き続きあいち2022の作品を見て回る。
旅の疲れや猛暑の中歩き回るせいもあるが、やはりこの展覧会の全体的な会場作り作家や作品の選びにポストコロナではなくコロナ以前の価値観で繰り返されてきたマッチョでスペクタクルな物言いが下敷きされているように感じてどうにも乗り切れない。
個々の作家には魅力的なものがあり、ちゃんと感動できるものがあるけれど、情報量が多すぎて全体的にはしんどさの方が先立ってしまう。

作品よりむしろボランティアスタッフさんたちの対応や面白がり様、サインが街中の個人店にぴったりディスプレイされている様が人間味、コミュニケーションの丁寧さを垣間見せてくれて好感が持てる。
また、地元愛知の作家を丹念に見せてくれるのもとても好感が持てた。

目の前の表現が不安、不信、恐怖、恐慌といったネガティブさを下敷きにしているか、愛、喜び、勇気、自由といったポジティブさを下敷きにしているかは私にとってとても重要で、その原初の動機が純粋で正直であればあるほど心を打つ。

乗り切れない中でもインスタレーションの持つ日常への侵食性は日本の日常的な風景であるほどその威力を増すようで、たまたま入った喫茶店の照明、公園のパブリックアート、足下を歩く蟻や木陰のカラスといったものたちがもう昨日までの価値観の中にいないことに気づく。

一宮地区を全て見終わりへとへとで名古屋駅に帰りつく。
新幹線の出発まで時間があるが、何か出来そうな気力もなくかといって引き続きお祭りのような人手で駅から少し離れた小さな公園の木の椅子に座り込む。
向かい側の象を模したコンクリート製の滑り台で小さな男の子とお父さんが遊んでいて、少し離れたブランコの柵にお母さんと思われる人が腰かけてぼんやり二人を眺めている。

ほとんど人影のない公園で私はこの旅でようやく吉田健一を読む機会に恵まれ、「甘酸っぱい味(ちくま学芸文庫)」を読み進める。

我々人間の世界で高みに立つということが、実際に高いところに登るのに似ているのは、我々の周囲がその時、静かになることである。木の葉一つ動かない感じで、我々はただ息をしていることに満足する。
ただ飲んでいても、酒はいい。余り自然な状態に戻るので、却って勝手なことを考え始めるのは、酒のせいではない。理想は、酒ばかり飲んでいる身分になることで、次には、酒を飲まなくても飲んでいるのと同じ状態に達することである。

いつの間にか寝入ってしまっており、ふとした拍子で目が覚めた時、ビルに囲まれた公園は日が落ちた直後の紺色に包まれて文字通り目が覚めるほど美しい。
風に揺れる木のざわめきが神の遍在を知らせ、遍在であるからには揺れる木以外にも神を感じ取れるはずだと考えるとルビンの壺のように神秘なもの美しいものと日常的なもの他愛ないものつまりハレとケが反転し、どこまでも神が拡がってより世界との親密さが増したように感じる。

駅に戻りホームの待合室で休んでいると4人連れの団体がやって来て私は5人席のベンチ中ほどに座っていたので、端に避けてどうぞお座り下さいと言う。
私の隣に座った若者がお礼にバキバキに割れためんべいを差し出してくれ、実は私も福岡から来ましたと言ってから話が始まり、彼らは世界コスプレサミットに来ていたらしかった。
その人もコスプレイヤーで、私は雑魚なんでという恐縮の仕方が如何にもその筋の方で好感度高くコスプレサミットについてインタビューするようなかたちになり、もう20回目で東京のコミケに並んで大規模なイベントですねと嬉しそうに話してくれた。
その後、同じ博多行の新幹線の時間まで彼らは同行のカメラマンが撮った写真をきゃいきゃい眺めて後の祭りを楽しんで去って行った。

新幹線が九州に入った途端、建物が低く親しみを持ってその夜の濃い空気を眺め、醤油が南に行くほど甘いことと何か関わりがあるような気がしてくる。
帰宅して風呂に入り、キン肉マンの最新話を読んでアシュラマンいちいち自分の腕をまとめてからバーザーカーに向かって行ってそれを利用されてしまうことにモヤモヤし、ストレッチをしていたがどのタイミングで寝たのか覚えていない。

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