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厄年と天使の話

今年私は厄年らしい。
確かに手足はよくつる。
しかし他に厄っぽいことは、何も思い浮かばない。

厄年を迎えたものの、30半ばを過ぎてからはずっと昨日より今日が楽しいという暮らしになっている。

この延々続いている楽しさの右肩上がりは、もうこのままずっと登り続けるだろうと思っている。
もちろん確証はひとつもない。

私の人生では、望みを捨てたら世界が叶えてくれるという仕組みになっているらしいことがここ数年の発見であり、そうかもしれないことについて検証作業を行っている。
ニール・ドナルド・ウォルシュの本で、世界に押し出したものが返ってくることになっている、という話を読んだ時はあまりピンと来なかった。
確かニールの本だったと思う。
他のスピリチュアルな本かもしれない。

自分が頑張って努力してレベルを上げて正しい方法で攻略したときに、良い成果≒幸せがやってくる、そしてレベルを上げ続けラスボス的なものを倒して人生クリアみたいな、古典的RPG世界観は私の人生には当てはまらないらしい。

自分でやろうとしているうちは、どうしてもそれを得ることができなくて、いいやもうやめやめうまいもん食って遊んで寝ようみたいになれた時に、思いもかけないタイミングと方向から、それがやってくる。
ことが多い。
というか面白い。

実際にはちょっとタイムラグがあるので、ほとんど忘れた頃に、昔欲しかったものが転がり込んでくる。
転がり込んできた時にはもうそれについて、何であんなに欲しい欲しいと欲張っていたのか、ちょっと不思議な気すらする。
そこでどうやら、すっかり手放していたらしいことにようやく気づく。

ただ、欲しいものだったので、転がり込んできてすごく幸せであることは間違いなく、それでいてあまり動揺や高揚なく穏やかにそれについて取り組むことができる、という仕組みになっている気がする。  

釈迦の教えを端的に言うと、執着を捨てろという一言に集約されるという言葉がある。
どこで読んだか覚えていない。

何もかもが、私の中にあるらしい。
それをぽいんと外に捨ててしまうと、世界に現れるということだろうか。

創作することについて、そこそこの時間をかけて試し、考えてきたように思うが、どう考えても創作物は私だけの力では成り立っていない。
インスピレーションとは何だろう。
何かの創作を行う時に、タイミングよく現れる人や、言葉や、状況が私を強力に後押ししてくれるのは何故だろう。

あまりにそれが続くので、これは真実だろうと思い始めた。
世界と私は、何の繋がりもないと思っていた。
私の跡に道は出来るが、前に道はないと思っていた。

どうやら違うらしい。

私がある方向性を持って、進もうとする時、ガイドが現れ、道が現れる。
背中を押す風が吹き、ここで休むといいと誰かが声をかけてくれる。
これらの出来事はどれが先で後なのか、創作の過程では渾然一体となっている。
ガイドは私を待っていたとも言えるし、私がそのガイドを見出だしたとも言える。

私は最初にその方向を目指し、それは自分の意思であったと思っていたが、後から思い返すと、何かに促されていたようにも思える。

人生と世界については、明らかになっていないおもしろい秘密があるらしい。
そのことも、ニールの本に書いてあった。

 だが気をつけることだ。気をつけていないと、通りの物乞いや電話をかけてきた親戚が、どうしてあなたの人生とかかわったのかがわからなくなる。あなた自身が彼らを人生に招き入れたのだということを忘れる。
 幻想に深く浸りこんでしまうと、人生で出会うすべてのひと、場所、出来事はあなたが呼び寄せたのだということを忘れる。人生で出会うひとや場所や出来事は、自分を具体的に知るための完璧な機会を創造しているのだということを忘れる。
 わたしの最大の教えを忘れる。わたしは天使以外の何も、あなたがたのもとへ送らなかった、ということを。

ニール・ドナルド・ウォルシュ(吉田利子訳)「神とひとつになること」204、205頁 サンマーク文庫




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