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プロローグ

プロローグ

「こんなことがあるはずがない!」

ジェンキンスはひとりごちした。今自分の目の前で起きていることを受け入れることができなかった。次々に現れては消える、その「自分はSIDのユーザーではないし、今はARグラスも掛けてはいない。

 見えるはずはないのだ。

 だが、それはジェンキンスの目の前にいる、見えるだけではない、たしかに存在しているのがわかる、肉体を持つ、質量を持つ実存的ななにかをたしかに感じているのだ。

 だからこそ、受け入れることができないのだ。理性が歯向かっている。

 来年九十歳を迎えるジェンキンスにとって、この六十年の変化はあまりに大きすぎた。大きすぎて実感できなかったと言ってもいいかもしれない。
 だけれども今は違う、いま始めて世界が確かにかわったのだ、自分がこれまで信じていた、存在していた世界のありようがすっかりかわってしまったことがハッキリわかる。実感できる。それが身にしみてわかった。

「あなたには見えているはずだ」それが囁いた。

1969年4月29日

 ジェンキンスが生まれたその日その年、テクノロジーの種がまだ芽吹いていない時代に足を踏み入れた。しかし、やがて彼は、時代の激動に巻き込まれる教師となる運命であった。24歳の時、1993年に彼が教職に就いた頃、電子の波がまだ広がり始めたばかりであった。

 ミネソタ州の片隅に存在する古びた高校は、ネオン光が煌めく未来都市とは程遠い、静かな場所に佇んでいた。校舎の壁には、デジタル技術の影響がまだ及んでいないかのような趣が漂っていた。その中で、ジェンキンスは非常勤の歴史教師として教壇に立ち、若者たちに知識の扉を開く手練れとなった。

 最初のうちは、教師としての日々は刺激に満ち、彼は情熱を燃やしていた。しかし、2005年頃から、学生たちの知識レベルが目に見えて低下していくのを彼は感じ始めた。高校生でありながら、分数すら理解できないといった状況が目立ち、明らかに知識や教養が欠けている様子が顕著になっていった。

 この状況は、まさに知的貧困と言えるだろう。そして、時が経つにつれて、2020年にはその教育レベルはさらに悪化した。彼の目の前で、生徒たちのうち半数近くが、100点満点の試験でわずか5点しか取れなくなっていたのである。

 教育者たちは困惑し、誰もが正しい教育方法が何であるかを見失っていた。

 変革の瞬間が訪れたのは、ジェネレーティブAIが舞台に登場したときであった。この画期的な技術は、生徒それぞれのレベルに合わせて個別に教育を施し、学力の向上を目の当たりにすることができた。それはまるで、学生たち一人ひとりの知識の花が咲き誇るかのようであった。

 この進歩により、人間の教師の役割が消え去るかのように感じられた。

 それにもかかわらず、教育レベルは確実に上昇し、社会全体がAI技術の恩恵を受け入れていく中で、未来への道が切り拓かれていった。多くの人々は、その革新的な力に感謝し、驚嘆の声をあげた。

 だが、ジェンキンスはどうしてもこの現象に馴染めず、心の奥に渦巻く違和感を払拭できなかった。彼の瞳に映る、AIによって教育を受けた生徒たちは、何か物足りない、何か人間として本来持つべき魂が欠けているかのように見えるという感覚が、彼の心を蝕んでいた。

 ジェンキンスの考えに呼応するかのように、2030年代のアメリカ合衆国は緊張と不安に包まれる暗雲が立ち込めていた。ネオ・フェデラリストの陰謀と称される一連の爆弾テロや事件が続発し、国民の心に恐怖を植え付けていた。経済的格差の拡大と政治的対立の激化が、社会を揺るがす波紋を広げていった。

 ネオ・フェデラリストの陰謀論は、複数の政治家や経済団体が関与する極秘作戦であり、巧妙にAIのプログラムやその他の手段を駆使して実行されていた。彼らの目的は、国民の分断を狙い、混乱によって支配を強化することであった。

 2037年の初頭、ある計画が暴露されると、アメリカはかつてない混沌に巻き込まれた。北部諸州では民主党支持者が大勢を占め、「青いアメリカ」として団結した。一方、南部と南西部の一部は共和党支持者が中心となり、「赤いアメリカ」と呼ばれる勢力が形成された。そして、中央部では中立を保ちたい人々が集まり、「グレー・アメリカ」と称されるようになった。

 当時の大統領、民主党のルーシー・アダムソンは、国家の統一を維持しようと奮闘していたものの、徐々にその力は弱まっていった。そして、アメリカの分裂は次のような独立宣言とともに決定的となった。

 2038年1月17日: 青いアメリカ(北部諸州)が独立宣言を行い、「北部連邦」として新たな国家を樹立。民主党の指導者たちが主導したこの動きは、国家の進歩と公平を追求するという理念のもとに行われた。

 2038年3月25日: 赤いアメリカ(南部と西部の一部)が、「南部連邦」として独立を宣言。共和党の勢力が牽引し、経済的自立と保守的価値観の維持を目指して団結した。

 2038年6月12日: グレー・アメリカ(中央部)が、「中央共和国」として独立を宣言。彼らは、両極の対立から離れ、国内の安定を追求しようとしていた。

 こうして、かつて一つであったアメリカ合衆国は3つの国家へと分裂し、それぞれが厳しい試練に立ち向かわざるを得なくなった。この分裂は、2048年まで続く激しい内戦へと繋がる。そして3つに分裂ししたアメリカはいまのところ昔のようにユナイテッドする様子は見えなかった。

 そのころジェンキンスはは、AIの教育が持つ冷たさや機械的な側面を憂いていた。生徒たちが、情緒や人間性を育む機会を失ってしまうのではないかと心配していたのだ。ジェンキンスは、人間の教師がもたらす温かみや共感力、そして教育の場での人間関係を大切にしていた。

 彼は自分の教え子たちに対して、AIが提供する教育だけでは得られない人間の魅力や感性を伝えることを決意した。彼は生徒たちに、人間同士のコミュニケーションや協調性の大切さを教え、心の豊かさを育むことに尽力していこうと決めたのだ。
 その場は公教育の世界には存在していなかった。

 そしてその学校の一つが日本にあった。

 

 ジェンキンスは、2041年の春、日本の福岡県にある桜花学院で教鞭をとることになった。その時から学校はすでに時代遅れの気配を漂わせていた。

 古い廊下を歩くたび、ジェンキンスは学校が放つ独善的な雰囲気を肌で感じてはいた。ここは男子部と女子部に分かれた全寮制の学校で、LGBT政策や社会通念の変化によって共学化が進んだこの世界にあって、男女別々に教育するという仕組みは一部の資産を多く持つものたちに限られていた。

 夜になると、福岡桜花学院の校舎は不気味な影を落とし、学校全体が暗闇に包まれる。その闇の中で、生徒たちの囁きや、遠くから聞こえる笑い声が聞こえてきた。幾ばくかの緊張感を醸し出していたがジェンキンスにはそれはむしろ心地よいものとして感じられた。

 彼自身も、時代遅れになってしまったのではないかと、不安に駆られることもあった。彼は窓を開けると、寒い夜風が部屋に入り込み、彼の体を震わせた。

 この学校の生徒たちも、世界中の多くの若者たちと同様に、14歳の誕生日を迎えると、SIDという革新的なテクノロジーを装着する機会を得る。SID、すなわち スクライバル・インプット・デバイス(Scribble.Input.Device)通称『S.I.D.』である。
 侵襲式BMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)であるSIDは言葉を思い浮かべるだけで文字を入力することができた。脳細胞と直接接続され脳波と同期するその機械は、2026年に登場した当時は文字入力しかできなかったが、開発から30年が過ぎた現在、テキストだけでなく音声や動画、イメージそのものを直接やり取りすることが可能になっていた。

 2040年代に入って、人々の基本的な知識や教養は、SIDのネットワークを介して得られるようになり、情報の受け取りや伝達を、非常に効果的に行えられるようになっていた。そして実用化が進み10年が過ぎた頃いろいろなことがわかってきた。
 十分な知性と知識・教養の基礎があるほど、SIDを最大限に活用することが可能だということだ。自己成長を促進するためには、しっかりとした知識や教養の土台が欠かせない条件となっていた。

 小学生から中学生にかけて、基礎的な学力をSIDへの接続なしで鍛えることは、その後の学習効率に大きな影響を与えることがわかってきた。これが、ジェンキンスの豊富な教育知識やスキルが存分に活かされる理由でもあった。この時代、基礎的な教育を受けていない場合、SIDはその能力の十分の一も発揮できないのだ。
 SIDの介在しない教育は効率がいいとは言えなかったし、全盛期のローテクで地味な教育でしか伸ばすことができなかった。すなわち徹底的な反復と集中である。そのような教育方法はジェンキンスのようなアンプラグド(SID未装着者)にとってはお手の物だったし、この学校の少人数教育、よく寝られたカリキュラム、反復と応用の徹底によって高い水準の教育を行うことができた。
 この時代のエリート教育は、人間の内面的な力を高めることを目的として、意図的に困難で効率の低い教育方法を採用していた。これにより、生徒たちは自らの持つポテンシャルを最大限に引き出すことができるよう、精神的な成長を促す環境が整えられていたのである。

 時代は確実に進んでおり、この超知識社会ではSIDの利用、すなわちAIを使いこなすことが生きてく上で欠かせないものとなっていた。ジェンキンスは当初、この急速な変化に戸惑いを感じてはいたが、教育の現場において生徒たちがSIDを適切に使用するための指導が重要だと強く認識していた。

 桜花学院では、生徒たちがSIDを装着する前に、基本的な知識と教養を身に付けることが求められていた。中等部の2年生が試験に合格すると、ようやくSIDの装着が許可される仕組みになっていた。ジェンキンスは、生徒たちが十分な知識と教養を持ってからSIDを装着することで、その力を最大限に活用できると信じていたし、事実その通りだった。
 多くの生徒は、2年生になるか14歳を超えた時点で試験に合格し、そのタイミングでSIDを装着することになっていた。ジェンキンスは、彼らが新たなスキルを習得し、SIDを使いこなす姿を見るたびに、感慨深く思いを巡らせていた。同時に、自分の教育方法が彼らの成長に大きく寄与していることも誇りに感じていた。
 段階的な教育プロセスを経て、生徒たちは自らの持つポテンシャルを最大限に引き出し、知識社会で活躍するための強固な基盤を築いていった。
 しかし、試験にどうしても合格できない生徒もいた。
 その中の一人が中国系の生徒、王梓(ワン・ズー)だった。他の生徒や教師たちは彼の名前を親しみを込めて、シャオ・ツー(小梓)と呼んでいた。
 シャオ・ツーはこれまでに四回の試験を受けたが、いずれも不合格の結果が続いていた。ようやく5回目の試験で合格を勝ち取ることができたのだ。もし5回目の試験でも不合格だった場合、SIDを未装着のまま三年生へ進級することになってしまうのだ。

 中学3年生からは、SIDを装着した状態での学習プログラムが始まるため、その状況だけはなんとか避けたかった。なんとかシャオ・ツーは、試験に合格しSIDを装着できることで、他の生徒たちと同様に学習の道を歩み始めることができることになった。ジェンキンスは彼の努力を見守り、彼が困難を乗り越えて成長することを期待していた。それだけに彼の試験結果はジェンキンスにとっても心配事だったのだ。
 2040年代後半の社会では、人と人との温かなつながりはほとんど失われかけていた。人と人をつなぐ複雑なネットワークは、かつて愛と情熱が占めていた空虚な空間を強調するものでしかなかった。この冷徹で計算高い社会では、人と人とのつながりの温かさはすっかり失われ、愛や情熱があったはずの空虚な空間が強調されるだけだった。
 人間関係はますます表面的なものとなり、深い感情を誰か他人に対して抱くことは稀になっていた。愛は科学的な要素として説明され、感情的なものとしての相対的な価値は低下し続けていた。
 50年代に入ると、SIDの影響で人々の心の交流がさらに薄れ、愛の本質とその重要性が徐々に失われていった。映画や小説などのエンターテイメントは過激さを増していたけれども、多くの人々(もちろんジェンキンスも)はそれらが20世紀の影のようなものだと感じていた。
 愛が現実の世界での意味を失う一方で、人々は愛をただの消費物として扱うようになり、かつてのロマンチックな価値観は風前の灯火のように消えていった。同じ頃その空白を埋めるかのように、半世紀以上前の名作映画が次々とリメイクされた。愛を消費するためにかって愛を表現したコンテンツが見直されていたのだった。

 シャオ・ツーが試験を見事クリアし、SIDを身につけてからおおよそ二週間が過ぎていた。彼は世界史の授業が終わった教室で私に話しかけた。顔には微笑みが浮かんでいた。
「先生、僕のファミリア、フロイドを紹介したいんです。」
 私は興味津々で、「フロイドって誰?」と聞いた。
 シャオ・ツーは熱心に話し始めた。
「フロイドはね、映画でちょっとだけ登場するんだけど、すごく魅力的なんだよ。ブラッド・ピットが演じてるんだ。だからSIDでファミリアのアバターを選ぶ時、彼を選んだんだ。名前もそのままフロイドだし。彼は素晴らしいし愛らしいんだけど、ちょっと馬鹿っぽいところもあるんだよね。クラスの友達にはいないようなタイプだけど、ファミリアとしての能力はちゃんとあるから大丈夫なんだ。」

 少し前に、ジェンキンスは1993年にトニー・スコット監督が制作した「トゥルー・ロマンス」がリメイクされたことを思い出した。
 ある晩、若い男性が魅力的な女性に出会い、瞬く間に恋に落ち、翌日には結婚するという展開だった。だが、彼女はコールガールであり、彼女のポン引きを殺した彼は、間違えてヒモのコカインを盗む。そのコカインはイタリアン・マフィアのもので、2人は彼らから逃亡を始める。やがてハリウッドの悪党や警察も巻き込まれてくる。
 何故かは分からないが、この映画は大ヒットを記録した。公開から60年近くが経過していたにもかかわらずだ。ただ、オリジナルとは大きく異なる点が一つあった。エンディングで 主人公たちは命を落とすのだ。脚本家クエンティン・タランティーノもあの世で満足そうに笑っていることだろう。
 このリメイクされた映画のキャッチコピーは「最後に死ぬのは獰猛な愛」だった。

 翌日私は部屋でシャオ・ツーが来るのを待っていた。私がシャオ・ツーのファミリアを見るためには、SIDコムのネットワークに接続されたAR環境が必要だった。自分の脳がSID化されていれば、設定を少し変えるだけでファミリアを映し出すことができる。
 だが私はアンプラグドで、来年90歳になるし(長寿の時代にあっても自分の残りの人生は限られている)。これまでSIDは自分には必要ないと思っていたし、これからもそうだろうと考えている。そして単純に、頭脳にデバイスを直接植え付けることへの恐怖感が装着を踏みとどまらせていたことに間違いはない。
 仕方がないので、非侵襲型のARグラスを使って共通の視界環境を共有することにした。ARグラスは侵襲度の低いデバイスで、脳に直接電極を差し込むタイプに比べれば性能は劣るものの、ネットワークに接続することで共有空間の視野に同一のイメージを共有することができる。SIDが接続されていない私の脳は、擬似的にファミリアを視覚化することができるが、解像度は低いものになるだろう。それでも、薄くぼんやりとした姿ではあるが、ファミリアの概要は捉えられると考えていた。

 放課後、シャオ・ツーが現れるのをジェンキンスはずっと待っていたのだが、一時間を過ぎても彼は現れなかった。

「そういえば時間を決めていなかったな」とジェンキンスは思った。

「放課後に話そう」と伝えただけだったのだ。
一日の最後の授業が終わるのは午後三時三十分、教師が職員室やそれぞれの準備室に戻るのは大概午後4時をすぎるころだ。

 ジェンキンスがいつもいる研究室に戻るのもその時間だ。

 ジェンキンスは部屋に戻る前に「シャオ・ツーはもしかしたら部屋の前でもう待っているかもしれないな」と思っていたが、彼の姿はなかった。

 しばらく待っていたのだが、その日結局シャオ・ツーは現れることはなかった。

 その日だけでなく、シャオ・ツーは学校から姿を消していた。クラス担任の岡崎先生にシャオ・ツーの行方を尋ねてみた。

 なんでも家族に不幸事があって、急に家に帰らなければならなくなったということだっと。

 ジェンキンスはそれなら仕方がないなと思った。急なことだったのだろうから、私に連絡する暇がなかったのだろうと納得した。

 ジェンキンスは少し残念に思う。

 シャオ・ツーの話を詳しく聞きたかった。

 SIDの使用感であるとか、勉強のやり方に違いはあるのかとか、なによりも彼が紹介したいと言っていたファミリアのフロイドについて聞いてみたかった。

 どうして彼を選んだのか、そしてフロイドはどんな感じのファミリアなのか。

 あの年頃の男の子が、人間の男性、しかも年上をファミリアに選ぶということは、あまりない。

 たいていカワイイ女の子や、動物のアバターを選ぶことが多いのに。

 映画の中のフロイドというキャラクターも少し気になった。

 ヤク中の頭のちょっとイカれた男、AIアシスタントのキャラクターとしてはあまりふさわしくないように思えた。

 シャオ・ツーの家庭環境も少し変わっていた。

 多くのプライベートスクールにありがちなことだったが、この桜花学院にも血筋や家柄を重要視する者たちが多かったのだ。血族主義者(バンディズム)。血脈や遺伝子を重視する主義。20世紀には珍しくなかったがいわゆる家督であるとか血筋であるとか、そういう血のつながりを重視する考え方は現在では少数派だった。

 血筋よりも知恵の伝承を大事にする。血は水よりも濃いとは言っていたが、21世紀の後半になって、叡智は血よりも濃いというような考え方が増していった。より、優れたものに遺産や財産・資産を受け継いでいくことの重要性が大きいと考えるものが多くなっていた。

 電脳ネットワークに知恵や知識やいろいろな電子マネーがアカウントに紐づけされている世界で、同じ血脈であるとか、自らが痛みに耐えて生んだ子供に財産を引き継ぐということに、人類は飽きつつあった。
 人類という種として残していくときに、記憶や知識が電子空間で共有できるようになり、またその共有を幹にするほうがより財産を増大される拡張されるという考えが標準になっていた。

 そういう意味で、世間一般の道徳観から言えばシャオ・ツーはよくいる子供だった。たがこの学院では少数派だ。学院の九割以上の学生は血族主義を大切にする家庭の子供だった。シャオ・ツーのような養子に迎えられた児童は学年に一人いるかいないかだった。事実、今現在学校全体で3人しか確認できない。記憶に残る卒業生を含めても両手で事足りるくらいの数ではあった。

 入学時の厳しい調査で家族関係や血縁関係については深いところまで確認をとる。それがバンディズムを重視するこの学校の方針でもあったし、それが求められているということも大きかった。

 シャオ・ツーがこの学院に入ってきたのは、彼が9歳のときだ。編入する生徒は珍しかったが、学校への多額の寄付とともに彼は入学した。

 華僑であるシャオ・ツーの両親は子供に恵まれることがなく、父親のワン・ラオシャンが56歳になったときにシャオ・ツーを養子に迎えた。

 シャオ・ツーはいわゆる「捨てられ、保護され、大切に育てられ、権利を与えられた子ども」の姿を体現した"Nurturedight child"だった。

 この言葉の由来は、人を大切に育てることを意味する "nurture "と、何かを得る道徳的・法的な権利を意味する "right "という2つの言葉からきている。この2つの言葉を組み合わせることで、"Nurturedight "は、子どもたちに適切なケアとサポートを提供し、正当な権利を保障することの重要性を強調している。この言葉は、安全で愛情豊かな環境で子どもを守り育て、子どもたちが生き生きと活躍するためにふさわしい機会を与えるという社会の責任を強調していた。

 20世紀の子供は各家庭で育てるものだとか、親子の情愛を土台にしていた子供の権利は、少子化と、同性婚の増加などの理由によって、「むしろ養子縁組をしたほうが子供の成長をより豊かにする」というエビデンスもいくつかあり、まさしく「生みの親より育ての親」ということわざ通り、子供が育つためには、むしろろくでもない親であるならば、親でないほうがいいのだという考えが一般的になりつつあった。

 我が子を自分の手元において育てる、母乳による育児は、どちらかといえば贅沢でわがままな子育てであり、中には「母乳で育てるのは児童虐待である」というような過激な意見を言うものさえいた。

 21世紀になって半分が過ぎて、本当に自分が子供だった頃に比べると常識というものは変わるものだとジェンキンスは思う。

 子供を育てる、よく育てるのは親の情愛ではなく、とりまく環境であって、肉親や両親が育児しなくても、その子を慈しみ優しく大切な存在として肯定することができるなら、それがロボットであっても問題がない。

 ジェンキンスはNurturedight childについて非侵襲型BMIを使って調べる。

 目の前に現れて彼のアバターAIファミリアがAR表示されたパネルを動かしなから説明する。ARによって目の前に資料パネルの映像が浮かび上がる。

追記:以下のログが参考になるかもしれません。

ASSISTANT

A word that embodies the idea of a child who has been abandoned, protected, and raised with care and given the right to be cherished, could be “Nurturedight.”

The origin of this word can be traced back to two words - “nurture,” which refers to the process of caring for and raising someone, and “right,” which refers to a moral or legal entitlement to something.

By combining these two words, “Nurturedight” emphasizes the importance of providing proper care and support to children and ensuring that they are given their due rights. The word highlights the responsibility of society to protect and raise children in a safe and loving environment, and to give them the opportunities they deserve to thrive and flourish.

 捨てられ、保護され、大切に育てられた子ども、そして、大切にされる権利を与えられた子ども、そんな思いを込めた言葉が「Nurturedight」でしょう。この言葉の由来は、「nurture」(誰かを大切に育てること)、「right」(何かに対する道徳的、法的権利)、この二つの言葉を組み合わせて、「Nurturedight」は、子どもに対してきちんとケアやサポートをし、正当な権利を与えることの重要性を強調しています。この言葉は、安全で愛情に満ちた環境で子どもたちを守り育て、子どもたちが生き生きと活躍できるような機会を与えるという社会の責任を強調しています。

USER

ストレンジ・シチュエーション法などに見られる育児の実験で、子育てには肉親の情愛が不可欠であるという結果が出たそうですが、AIやロボットに子育てはできるでしょうか?あなたの考えを教えてください。

ASSISTANT

It is true that experiments in child-rearing, such as the Strange Situation procedure, have shown that the love and affection of a biological parent is essential for raising a child. However, when it comes to the possibility of AI or robots being used for child-rearing, it is a complex and controversial topic.

On one hand, AI and robots have the potential to provide children with consistent and efficient care, and to assist with tasks such as feeding, bathing, and monitoring their development. They could also be programmed with educational and entertaining activities to help stimulate a child’s development.

On the other hand, there are several concerns about the use of AI and robots for child-rearing. One of the most significant concerns is the potential lack of emotional and social support that a child would receive from an AI or robot. Children need emotional connection and love from humans in order to develop healthy relationships and emotional intelligence. Additionally, there is a risk that AI and robots may not be able to provide the necessary emotional support and guidance that children need during their formative years.

In conclusion, while AI and robots have the potential to assist with child-rearing, it is unlikely that they will ever be able to replace the emotional and social support that a child receives from a human parent or caregiver. It is important for children to have human interaction and love in order to develop into healthy and well-adjusted adults.

 確かに、ストレンジシチュエーション法などの育児実験では、子どもを育てるには実の親の愛情が不可欠であることが示されています。

 しかし、AIやロボットが子育てに活用される可能性については、複雑な議論があり、一方、AIやロボットは、子どもたちに一貫した効率的なケアを提供し、食事や入浴、発達の観察などの作業をサポートする可能性があります。

 一方で、AIやロボットを子育てに活用することには、いくつかの懸念があることも事実です。

 最も大きな懸念のひとつは、AIやロボットから子どもが受ける感情的・社会的サポートの欠如でしょう。子どもは、健全な人間関係や感情的な知能を発達させるために、人間からの感情的なつながりや愛情を必要とします。

 結論として、AIやロボットは子育てを支援する可能性はあるものの、子どもが人間の親や介護者から受ける感情的・社会的サポートを代替できる可能性は低いと言えます。子どもたちが健康で適応力のある大人に成長するためには、人との交流や愛情を持つことが大切なのです。

USER

感情的社会的サポートがあればAIによる子育ても可能だということでしょうか?

ASSISTANT

It is possible that with emotional and social support from humans, AI-assisted child-rearing could be viable. However, this is still a complex and controversial issue and requires further exploration and discussion.

While AI technology has advanced to the point where it can provide basic care and assistance to children, it is still limited in its ability to provide emotional and social support. Children need love, affection, and emotional connection from humans in order to develop healthy relationships and emotional intelligence. This type of support cannot be replicated by AI technology.

It is also important to consider the ethical implications of relying on AI and robots for child-rearing. Children deserve to be raised in an environment that provides them with love, security, and support, and it is unclear if AI technology can provide these critical components in a way that is equivalent to human care.

In summary, while AI-assisted child-rearing may be possible with emotional and social support from humans, it is important to carefully consider the limitations and ethical implications of relying on AI technology for such a critical and formative aspect of a child’s development.

 人間からの感情的・社会的サポートがあれば、AIによる育児が実現できる可能性があるのです。しかし、これはまだ複雑で議論の余地がある問題であり、さらなる探求と議論が必要です。

 AI技術は、子どもたちに基本的なケアや支援を提供できるところまで進歩していますが、感情的・社会的支援を提供する能力についてはまだ限界があります。

 子どもたちは、健全な人間関係と感情的知能を発達させるために、人間からの愛、愛情、感情的なつながりを必要としています。

 このようなサポートは、AI技術では再現できません。

 また、子育てをAIやロボットに頼ることの倫理的な意味を考えることも重要です。

 子どもは愛情、安心感、サポートが得られる環境で育つのが当然であり、AI技術がこれらの重要な要素を人間のケアと同等の方法で提供できるかどうかは不明です。

 まとめ:AIによる育児支援は、人間からの感情的・社会的サポートによって可能になるかもしれないが、子どもの成長にとって重要で形成的な側面をAI技術に頼ることの限界と倫理的意味を慎重に検討することが重要である。

USER

 感情的・社会的サポートというのは具体的にはどんな仕組み、行為、制度、取り組みなのでしょうか?

ASSISTANT

Emotional and social support refers to the provision of love, affection, and social interaction that is essential for a child’s development. This type of support can take many forms, including:

  1. Emotional Connection:

Children need to form emotional bonds with their caregivers in order to develop a sense of security and self-esteem.

This can be achieved through consistent and positive interactions, such as holding, cuddling, and talking to the child.

  1. Social Interaction:

Children need opportunities to interact with others in order to develop social skills and emotional intelligence.

This can involve playing with other children, participating in group activities, or engaging in conversation with adults.

  1. Supportive Environment:

Children need to be raised in an environment that provides them with love, security, and support.

This can involve having a stable and consistent caregiver, access to adequate resources and opportunities, and a safe and nurturing home environment.

4.Guidance and Discipline:

Children also need guidance and discipline to help them develop self-control, responsibility, and a sense of right and wrong.

This can involve setting clear boundaries and rules, and providing positive reinforcement and consequences for their actions.

These are just a few examples of the various forms that emotional and social support can take.

It is important to understand that children’s needs are unique and will change over time, and that emotional and social support should be tailored to meet their individual needs and development.

 感情的・社会的支援とは、子どもの発達に不可欠な愛情や社会的相互作用を提供することを指します。

 この種の支援には、以下のようなさまざまな形があります。

  1. 感情的なつながり:

 子どもは、安心感と自尊心を育むために、養育者との間に感情的な絆を形成する必要があります。これは、抱っこしたり、抱きしめたり、話しかけたりするなど、一貫した積極的な関わりによって達成されます。

2.社会的交流:

 社会的なスキルと感情的な知能を発達させるために、子どもは他人と交流する機会を必要とします。他の子供と一緒に遊んだり、グループ活動に参加したり、大人と会話をしたりすることが必要です。

  1. 支援的な環境:

 子どもは、愛情、安心、支援を与えてくれる環境で育てられる必要があります。これには、安定した一貫性のある養育者を持つこと、十分な資源や機会を得ること、安全で養育的な家庭環境などが含まれます。

4.明確な境界線とルールの設定:

 自制心、責任感、善悪の感覚を養うために、子供には指導と規律も必要です。これは、明確な境界線とルールを設定し、行動に対して肯定的な強化や結果を与えることを含みます。子どもたちのニーズはそれぞれ異なり、時間とともに変化していくものであることを理解し、感情的・社会的サポートは、子どもたちの個々のニーズと発達に合わせて調整されるべきものであることを理解することが重要です。

 と、ここまでの解説がされてあと突然ドアが開きシャオ・ズーが部屋の中に入ってきた。

静かに笑みを浮かべて彼は静かに言った。

 彼はBMIを頭から外し、肉眼でシャオツーの姿に目をやる。

 そこに立っていたのはたしかにシャオツーだったのだが、その隣にいたのは信じられない、存在だった。あまりに自然に立っていたので、最初気が付かなかったくらいだ

 ジェンキンスはアンプラグドなので、本来はARとして表示されるファミリアを観ることはできない、最低でもARグラスが必要なのだ。

 それなのにフロイドの姿がはっきりと見えるのだ。

 ジェンキンスに近づくファミリアのフロイド、

 フロイドがジェンキンスの頭にその両手を添えるとナノマシンが黒い霧のように頭をぼんりと包み込む。それは青白い霧のようにも黒い煙のようにも見える。

 SIDがジェンキンスの頭脳に侵襲していく。

「これは特別なSIDなんですよ。」とシャオ・ツー

 ジェンキンスの視界が突然切り替わる、世界が鮮明になる。明度がます。少し白内障でぼやけたり霞がかっていた視界が、くっきりと鮮明に、倍率が上がる、ゆっくりと、ぼやけていた視界が明確になる。集中したらその原子の振動さえも見れるくらいの高解像度。

 ジェンキンスのSIDが暴走気味にイメージの流入を強制する。

意識を失いそうになるジェンキンス、暴走するSID、身体の外側と内側、世界と自分との境目があやふやになっていく感覚に襲われる。

 次第に、意識が混濁していく、なにか、新しいなにかが目覚めるような気持ちになっていく。自分という存在が曖昧になると同時にジェンキンスの体に変化が始まる。

 微細に振動を始める細胞。指先から粉になって消えていくジェンキンスの身体。

「これはもしかしたら、自分は死につつあるのではないか?」

 そう思ったと同時に、ジェンキンスの身体はこの世界から消えていた。



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