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嵯峨野の月#134 胡蝶

第六章 嵯峨野17

胡蝶

淳和院じゅんないんは平安京の右京四条二坊(現在の京都府京都市右京区)にあった淳和天皇の離宮であり、

退位後、皇族としての義務を果たした淳和後上皇は正妻の正子内親王と共に気楽な隠居生活を送っていた。

が、七年後の正月行事が終わる頃から後上皇は風邪をこじらせ寝込んでしまい、正子の看病のもと病床で過ごすふた月間、

五十を過ぎた自分の人生もこれまで。

と思い親王時代からの従者である藤原吉野を通じて親しい人に形見分けしたり最も気掛かりな息子で今年十五になった春宮、常貞親王つねさだしんのうの今後を頼む文を甥の仁明帝に何度か送ったりしている。

「全く…体は弱っているのに我ながら慌ただしい日々を過ごす事よ。だが、政争が起こり負け組になると平気で命奪われる。それが皇族というもの。

正子まさこ、あなたと子の常貞には今後安泰で過ごせるよう命ある限り帝に取り計らうからね」

「そんな、後上皇さま…」

と傍で涙ぐむ后の正子内親王を「今は大伴と呼んでおくれ」と後上皇は優しく抱き寄せた。

正子は兄、嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子との間に生まれた皇女で彼女が十四になると半ば強引に淳和帝と政略結婚させられた叔父と姪の夫婦である。

が、二人の間に皇子三人が生まれ十五年間の結婚生活で二人の愛情は確かのものへとなっていた。

夫を諱で呼ぶのは「大伴の叔父様」とじゃれついていた子供の頃以来なので正子が少し照れて「はい、大伴さま」と呼んだ承和七年(840年)の春の或る日、淳和院に見舞の客が訪れた。


見舞いの客は昨年遣唐大使の任を果たして帰国し、従三位公卿に出世した藤原常嗣。

とう常嗣つねつぐ、罷り越しました」と畏まる常嗣の顔を見て後上皇は、

なんということだ、病人の我よりもやつれているではないか…

と在位中最も引き立てて可愛がってきた臣下の憔悴ぶりに相手には気づかれないよう嘆息した。

無理もない。出港直前に副使小野篁と言い争い、航行不可能な船を部下に押し付けた横暴な大使様。として連行中篁が広めた謡によって悪評広められ、

彼自身がいくら苦難を乗り越えて大役果たしても、その功績が認められて公卿の座についても、

成した偉業よりも犯した過ちを上げ連ねて陰で嗤い、標的の尊厳そのものを貶めて留飲を下げる。

という人間の度し難い習性が宮中での冷笑と嘲笑となって皮膚にへばりつき、表向きつつがなく勤めている筈の常嗣の心身を徐々に蝕んで行った。

「心無いうわさが流れているがお前は決して悪くない。悪くないんだからね。堂々と胸を張って務めていればいいのだよ」

と逆に病人が見舞客に慰めの言葉をかける結果となってしまったその日の昼、常嗣は仁明帝に呼び出された。

「お前には知らせなければと思ってな。

実は…篁が今月じゅうに戻って来る。

都に入っても当分は自宅謹慎の身だからお前とは直接顔を合わせないように取り計らうつもりだ。が、書類不備で滞った政務を戻すのには彼の者の実務能力が不可欠だという事を解ってほしい」

は…と常嗣は表面上は畏まりながらも乗船拒否で自ら捕縛するよう命じた篁が目の前で縄打たれ、失望と憐みで友だった自分を見る篁の目が思い出され、心臓が強く波打った。

「口さがない連中の噂なんて気にするな。と言っても気にしてしまうのが人間だ。常嗣、朕は今朝不思議な夢を見たよ」

と、仁明帝は近侍の顔を見回し、ことし十五才の従弟で右近衛少尉である在原業平はじめ皆口が堅くて信用できる者たち。

と確認してから例え話なのか本当のことなのか解らない興味深い話をした。

ある春の朝、目覚めたら何か硬い繭のようなのもに押し込められていることに気付いた。体を左右に揺すってもがくと首からせなにかけてぱりりと殻が割れ、縮れた羽根を乾かすとそこには大きくて立派な蝶になっていた自分がいたのだ。

羽根をはためかせて腹が減れば花から花へ蜜を吸い、喉が渇けば水たまりで水を吸い、たまたま出会った雌蝶と交わり、疲れたら枝に止まって休む。

そうやって半月ほど暮らしている内に自分は力尽きて地面に倒れた。

「そこで夢から醒め、人の形をしている自分に気付いた。
自分は蝶になった夢を見ていたのか?と半身起こした朕はいつもの咳の発作でむせる中、

胴体を使い、深々と呼吸をしていた蝶の身になって『生まれて初めて楽に息をしていたのだ』と気付いた時、朕は人生をこう思うことにしたよ。

自分の正体は実は人間という長く苦しい悪夢を見ているだけの蝶であり、人生もどうせ夢。きっといつかは醒める。

…なあ常嗣、どうしようもなく辛く苦しいときにこう思っていれば案外やり過ごせるものだぞ」

それは

胡蝶の夢

という戦国時代の宋の思想家、荘子による、夢の中の自分が現実か、現実のほうが夢なのかといった説話であり、

蝶になるという無為自然こそ目的意識に縛られない自由な境地のことであり、その境地に達すれば自然と融和して自由な生き方ができると荘子は説いた。

仁明帝自身も生まれつきの病身のせいで貴族たちからは、

「なんと頼りない天皇か、仏の加護で生まれた御子なら強い体で生まれてきてほしかったのに」

と陰で揶揄されている事を知っているだけに常嗣は、

ああ、この国で至尊の座にあらせれれる目の前の御方も人生をそのように思っていらしたのだ…!

「お言葉、実に痛み入ります…」

と掲げた笏の下で涙声になり、傍で帝の話を聞いていた業平はじめ近侍たちももらい泣きをしていた。

それから半月間、小野篁が都に帰京した。と聞いても復帰した篁どのが因縁深い常嗣どのと顔つき合わせるのが楽しみだ。と貴族たちが噂しても聞き流し、平静な心で出仕し続けたがある日、

内裏の外廊下である公卿にすれ違い様、

「枝打ちされた藤が今更何の用だろうかねえ」

と冷笑され、その瞬間、今まで堪えていた屈辱と怒りが急激に沸き起こった。今の発言は聞き捨てならん!ときっと顔を上げた常嗣が相手を見た時…

どくん!と激しい痛みが心の臓を衝いた。
全身に脂汗が浮き、息を吸うのも苦しくなる。

意識までも失いそうな中で宮中で倒れる、という失礼をしないよう柱にもたれて耐える常嗣を取り巻いていた誰もが助けようとしない中で、何者かの力強い腕に担ぎ上げられた。

次に目を覚ました時、口に含まれた薬の苦みで常嗣は顔をしかめた。

吐き出そうとするも「心の臓の発作を起こしてお倒れになられたのです。五黄はお口に含んだままになさってください」と宮中医官、和気真菅が脈を取りながら常嗣の意識がある事を確認して注意する。

自分の周りには正妻の夏緒、ことし十九才の長男で内舎人の興邦おきくに、ことし三十才の末弟で左近衛少将の氏宗。そして…

すっかり日に焼けて野性味のある顔貌になった小野篁が長身を折り曲げて床に手を付き、

「私の大人げない振る舞いでこんなことになってしまった、済まない…」と身を震わせて泣いていた。

「篁どのが殿を担いで典薬寮(宮中医務室)まで運んで下さったからお命取り留めたのです」

と氏宗が自分が見た光景、対の廊下から篁が庭に飛び降りて急ぎ常嗣を担ぎ上げると韋駄天走りで典薬寮に向かって行った様子を伝え、「本当に、良かった…」と息を付いたところで常嗣すかさず

「氏宗、我が家の家督はお前に継がせる。かつて国を救った和気清麻呂の血がお前を守るであろう」

と氏宗と真菅、清麻呂の孫たちに向けて交互に目線を向けると安心しろ、とばかりににっこり笑って見せた。

「は、はい!」
と背筋を伸ばしたこの氏宗、二年後の政変にも巻き込まれず後の文徳帝となる道康親王に春宮亮として仕え、以降、順調に出世を重ねて右大臣にまで昇り詰める事となる。

「…しばらく、篁どのと二人きりにしてくれないか」

なぜ自宅謹慎中の篁が宮中に居たのか?
どうして自分にぼろ船を押し付けて沈んで死ね、と等しい命を下した上に乗船拒否で捕縛し、結果流罪で失脚させた張本人である自分を助けてくれたのか?

もうそんなことはどうでも良かった。

あの一件がなければ二人は共に令義解りょうぎかい(律令の解説書)の編纂に勤め、共に弓馬を競い合った親友なのだから。

「これが最後だと思うからお前にだけ言うぞ。この先、本気で出世したかったらもっとしたたかになれ。素直なのはいいが馬鹿正直に感情を表すと佞臣どもに狙われ、たちまち潰されるぞ、いいな?」

「は」と顔を上げた篁の顔には一切の感情というものが無く、その目で見つめられた者は心の奥底まで見透かされそうな冷たい目つきをしていた。

「いいぞ、その顔だ」

と満足したように常嗣は頷き、最後に思い出したかのように「我は派遣先の長安で詩の大家、白居易さまにお会い出来たぞ!」と自慢げに笑った。

「酔吟先生(白居易の号)に直にお会いしただと!?それは羨ましい!」

と本気で悔しがる篁に向かって「現地に赴いたおかげだ、ざまをみろ!」と親友をさんざ悔しがらせた後に「これでせいせいした」と笑いを収めると、

「籐の中納言、良房にはくれぐれも気をつけろ。あいつは佞臣と梟雄両方の素質がある」

と宮中で発作を起こさせた原因である切り捨てられた藤原。と言う意味の悪口「枝打ちされた藤」と言ったのが藤原良房だったことを篁にだけ告げた。

「近いうちあいつが己が野心で事を起こした時、お前が皇家を守ってくれ。頼む…そしてさらばだ」

「承知した」

それが最後の遣唐使として使命に翻弄された二人の最後の会話だった。

常嗣邸を出て門扉をくぐり抜けようとする篁がふと脇にある見事な枝ぶりの桜を見上げると、既に花は半分散り、葉桜となっていた─

翌月の承和七年四月二十三日(840年5月27日)、藤原常嗣死去。享年四十五才。最終官位左大弁従三位。


「これで夢から醒める。が兄の最期のお言葉でした…」

と喪主として葬儀を務め、常嗣の家督を継いだ氏宗の目に止まったのは黒い羽に青い筋の入った夏の揚羽蝶。

「あんなに漢学一辺倒だった参議どのがまるで荘子みたいな事を仰る」

と都の厳しい夏が迫る中、兄弟同然に育った友を慰めようと自邸に招いた源氏の頭領、源信みなもとのまことは、もしかしたらあの蝶は常嗣どのの常世での姿で我が家に挨拶にいらしたのかもしれねいな、と思いながら、


「さあ飲め飲め、今日のために地方からの珍味も用意してある。この世が夢なら今を愉しもうじゃないか!」

と特別に氷で冷やした酒の杯をぐいぐい友に押し付けるのだった。


昔、ある老いた貴人が野に立ち、まだ温かみの残る壺を天に向かって両手に捧げ持ってから主から仰せつかった最後の務めを果たそうとしていた。

梅雨が来る前の青く晴れた空のもと、心地よい風が吹く中彼は壺の蓋を開けると中から白く砕けた欠片を掴み、野に向け、風に乗せて撒き始める。

彼のその行為を決して誰にも邪魔させぬように、と密に仰せつかった篁は共に警護する武官の青年の、晴れた日の空のような青い瞳を確認すると、

「もしかしてお前、シルベ、賀茂志留辺かものしるべか?」

と歩み寄り、相手も「そういう貴方は童の頃、馬に乗せて下さった小野篁さま?」と実に十六年ぶりの再会を果たした。

懐かしいなあ、懐かしいですねえとお互い言いたいところだがそれは今の務めを終えてから。と言うふうに二人は唇を引き結んで前方に向き直り、警護する貴人を見守った。

やがて壺の中の最後の一握りを風に乗せて撒くと貴人、藤原吉野は空を見上げて、

大伴さま。これで、やっと自由になれましたね…

と心で語りかけると護衛の二人に「するべきことは終わった、帰ろう」と大原野を後にした。

承和七年五月八日(840年6月11日)、淳和後上皇崩御。享年五十四。

父桓武帝と藤原式家出身の夫人旅子との間に生まれた高い血筋ながらも彼自身皇族である事を望まず何度も臣籍降下を願い出たが血筋ゆえにかなわず兄嵯峨帝の強い意向で天皇に即位。

成人した甥に位を譲ってこれで皇族としての義務は果たした、とばかりに西院で隠居生活を送りながらも我が子で春宮の恒貞親王の行く末を案じながら世を去った。

「結局、死後も『皇族として』妻子の心配をしながら逝くのだな…吉野、我が死んだら直ぐ火葬にしてその灰を大原に撒いてくれ。もう誰にもこの身をいいようにされたくないのだよ」

灰になってやっと元の大伴となり、自分の我儘を通すことが出来た淳和後上皇と元天皇の御尊骸を勝手に火葬して散骨した藤原吉野の行いを、

主の最後の願いを実行した。

として嵯峨上皇も仁明帝も決して咎めることはしなかった。

吉野を護衛しながら帰路に付く賀茂志留辺、二十七才。

人生とは全てままならぬものと思ったこの時、

小さな紫色の蝶がひらり、と彼の目の前で二、三度旋回してから何処かに向けて気ままに飛び去った。

後記
人生は夢。我が身は蝶。と思わなければやってられない世情の中、実質最後の遣唐大使と淳和天皇が退場。







































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