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「怒る」って何なんだろう、ということを考えている

タイトルの通りで、このところこれが私のテーマです。怒るって、自分にとって一体何なんでしょ。

私の父はのべつまくなし怒り続ける人だった。外向きは「いい人」でも、抑圧された怒りの矛先はいつも家族に向けられ、母がそれを受けて立ち闘争が始まるので、私はいつの間にか「調整する人」になったように思う。

例えばリフォームの見積もりが戻ってきたとする。
それがいい加減だと父は怒り出す。
担当者を非難したあげく、結局その会社に見積もりを出したお前が悪いと母を責め始め、それを受けた母が「だってあんたが何もしないからだ」と受けて立ち、食卓はずぶずぶの様相になる。

けんかはやめてとか、まあまあ落ち着いてという言葉が何の効果もないことがわかってくる年齢で、娘はこの状況を収めるのは原因となっている問題を解決することだ、と思うようになっていく。

「いや、それただ見積もりを作り直してねと依頼すればいいだけのことだよね」
とその場で担当者に電話をかけて「すみません、一部不明なところがあるので作り直しもらえませんか?」とお願いする。

はい、これで問題は解決、怒るの終わり!


私の思考回路は、今もそうなっているように思う。
はて、ではそれで本当に問題は解決するんだろうか?


しないんだよね。
これをしても、食卓はまったく団欒には戻らない。

理由はとても簡単で
彼は問題の解決を望んでいるのではなくて
目的は「怒る」ことあるからだ。

怒る暇なく問題が解決されてしまったら
そこで振り上げた拳の行き場がなくなり
ただただ、また不機嫌になる。
やがて見積書から母を経由したその怒りは、私自身に向けられることになり、結局、何も変わらない。

「怒り」の感情は大切なものだ。でもそういう、「ただ怒りたい」という感情のことを「怒り」と表現してよいのかどうか、私は今もなんかよくわからないなーと思う。


「悲しみ」には解決策がないから時間をかけて癒されるのを待つしかないけれど、「怒り」が生まれる源流のところには、必ず解決への方策がある、と私は思ってきた。怒るより前に「何かできることが、すべきことがあるのではないか」と思うから、まずはそれを探す。
解決できれば怒らずに済むことは結構多い。その上で、本当に必要な時は冷静に「叱る」。もしくは感情が落ち着いてから「自分の気持ちを伝える」。その必要がないと思う関係なら、そっと離れる。そんな風にやってきたように思う。

希望や好奇心は持続できるけれど、私は怒りや憤怒は持続できない(というか持続したら削られる)ので、行動のモチベーションにはならない。だから持続したければ、面白いとか楽しいと感じられる形を探す。
自分がチャリティ活動を長く続けられたのは、たぶん、そこが大きいのかもしれない。

たぶん、「怒り」は私にとって苦手な部類の感情なのだと思う。

怒りがモチベーションとなり、怒るきっかけを探しているという私の父のような人は、世の中にどのくらいいるんだろう。
加えていえば、解決策が簡単にみつからないことに対する「怒り」(たとえば今起きている戦争や殺戮に対する怒りなど)を、私たちはどのように扱えばいいんだろう。

このところちょっと考えていることの覚書。
今日はここまでで、また明日、考えてみる。


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