見出し画像

03. のび太君のおばあちゃんは何者なのか?


まずはこちらをご覧になってほしい。




感動的なものだ。目頭が熱くなるとはこの事だろう。




ここで水を差すことを堪忍してもらいたいが、一旦おばあちゃんの立場になって考えてみよう。



編み物をしている最中に当然見も知らぬ男と出会し、更に「自分は未来からきた孫である」などと告白される。



常人あれば目を丸くし、目の前の得体の知れない存在におののくであろう。



おばあちゃんの認識は、我々にとってあまりに非合理的な解釈ではないか。




だがしかし我々の生活感覚は、おそらくおばあちゃんの錯誤こそ真実とするのではないか。




小林秀雄の作品に「人形」という短いエッセーがある。以下は全文である。



或る時、大阪行の急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で坐っていたが、やがて、前の空席に、六十恰好の、上品な老人夫婦が腰をおろした。細君の方は、小脇に何かを抱えて這入って来て私の向いの席に着いたのだが、袖の蔭から現れたのは、横抱きにされた、おやと思う程大きな人形であった。人形は、背広を着、ネクタイをしめ、外套を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子を被っていた。着附の方は未だ新しかったが、顔の方は、もうすっかり垢染みてテラテラしていた。眼元もどんよりと濁り、唇の色も槌せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落し、これも薄汚くなった丸坊主を出した。細君が目くばせすると、夫は、床から帽子を拾い上げ、私の目が会うと、ちょっと会釈して、車窓の釘に掛けたが、それは、子供連れで失礼とでも言いたげなこなしであった。もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない。それも、人形の顔から判断すれば、よほど以前の事である。一人息子は戦争で死んだのであろうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがったが、以来、二度と正気には還らぬのを、こうして連れて歩いている。多分そんな事か、と私は想った。夫は旅なれた様子で、ボーイに何かと註文していたが、今は、おだやかな顔でピールを飲んでいる。妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。それを繰返している。私は、手元に引寄せていたバタ皿から、バタを取って、彼女のパン皿の上に載せた。彼女は息子にかまけていて、気が附かない。「これは恐縮」と夫が代りに礼を言った。そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て坐った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った。彼女は、一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応したようであった。私は、彼女が、私の心持まで見てしまったとさえ思った。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか。細君の食事は、二人分であるから、遅々として進まない。やっとスープが終ったところである。もしかしたら、彼女は、全く正気なのかも知れない。身についてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか。異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢えて言えぱ、和やかに終ったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った。



近代以降の合理主義に服従するならば、細君が抱えているのは間違いなく”人形”である。



一方でそれが”息子”であるというのも真実ではないのか。



昨今で様々な事象について、部分解としての真実だけに固執する人が多いように思える。
「○○は××である」など自己の解釈様式から閉鎖的な論理を導き出し、必死に自己正当化しているようにも思える。




真実とは何なのか?



もしかしたら真実を知るためには、真実を多少犠牲にする必要があるのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?