「ウインド・リバー」を観る。

「ネイティブ」とは何か。

 舞台はアメリカ、ワイオミング州ウインドリバー保留地。いわゆる、「インディアン保留地(Indian reservation)」。そこで合衆国魚類野生生物局の職員をしていたコリーが、雪原のど真ん中に倒れていた少女の死体を発見する。少女の死体には性的暴行をうけた痕跡があった。死体は靴も靴下も履いておらず、走りながらマイナス30度の冷気を肺に吸い込んだことで肺胞が凍結。さらに呼吸をすることで肺胞が破裂、肺に溜まった血液がさらに凍り、その肺出血によって亡くなっていた。
 この事件の捜査を担当することになったのはFBIの若手捜査官、ジェーン。彼女はウインドリバーの厳しい自然に翻弄されながら、事件の真相に迫っていく。
 死んでいた少女、ナタリーはネイティブアメリカンの血を引いていた。コリーも過去にネイティブアメリカンの女性と結婚し、娘と息子をもうけたが、コリーと妻が家を空けている間に何者かに暴行され、死体となって発見された経緯がある。その過去の傷を負いながら、コリーとジェーンはタッグとなって事件を解決に導いていく。
 捜査を続けていくと、ナタリーにはガスの採掘場で働くボーイフレンドがいたことがわかる。そのボーイフレンドを参考人として捜索していたが、雪山の中で、変わり果てた姿で発見された。何者かがスノーモービルで死体を運び、遺棄したと見られる。
 コリーとジェーンは採掘場に事件の鍵があると踏み、事件を解き明かすために、採掘員たちの元を訪れる…。

 最後、コリーはナタリーをレイプした末に肺出血に追いやった犯人を、ナタリーと同じ末路を辿らせる。コリーは犯人を捕え、山中まで連れていく。そして、裸足のまま山中を走って逃げるように指示する。犯人は、走りながら肺出血に陥り、絶命する。
 このラストをどう感じるか。目には目を、歯には歯を。復讐を遂げることができた、といえばそうかもしれないが、私刑といってしまえばそれまでだ。犯人には法による裁きを受けさせるべきだったのかもしれない。コリーも「自分は人を裁くことはできない」と言っているように、最後は「自然の力」によって犯人を死に至らしめる。まだ死刑制度が残っている日本では、ある程度共感を得るところもあるかもしれないが、州によっては死刑が廃止されているアメリカの中では、共感を得られるラストだったのだろうか。

 まず思い知るのは、「今のアメリカ」について私が何も知らないということだった。
 アメリカにおける抑圧対象といえば「黒人」が挙がる。確かに黒人差別も現代のアメリカが孕む問題ではあるが、それも一つの側面であり、人種のるつぼであるアメリカにはもっといくつもの顔がある。その一つが「ウインド・リバー」が明らかにしたネイティブアメリカンである。ネイティブアメリカンは「居留地」として国が設定した土地で生活している。
 居留地の歴史は古く、19世紀初頭からインターコース法、ドーズ法(ドーズ案で有名なチャールズ・ドーズとは別人)などを制定することで居留地を個人所有の不動産化させていった。しかし、それらの土地はネイティブアメリカンの手から離れていき、徐々に狭まっていく。
 1948年には投票権が与えられるなど、ネイティブアメリカンの人権も認められつつあるが、現代でも居留地の中に主たる産業も根付かず、貧困に喘ぐネイティブアメリカンも多いと言う。レイプされ、死んでいったナタリーもそんな中で生活を強いられていた。
 映画の最後には「ネイティブアメリカンの少女の失踪は後を絶たないものの、統計調査は実施されておらず、正確な人数は把握されていない」という字幕が付される。「reservation」とは言いつつも、ネイティブアメリカンの人権というものは保護されていないということがわかる。
 ただ、事件を捜査するコリーやジェーンは白人である。ジェーンは明らかにコリーの妻の母親(ネイティブ)から忌避の視線を向けられる。
 ナタリーをレイプした犯人たちも、白人だった。もちろん、レイプ犯に同情の余地はないのだが、彼らがどんな状況で、どんな心情の中で居留地の中で働いていたのかは私にはわからない。居留地におけるガス採掘が社会の中でどんな仕事して認められているのか。そこにいる彼らはどれだけ抑圧を受けているのか。コリーは犯人に対して「孤独だったか」と問う。彼ら白人の中にも、孤独は巣食っていたのだろうか。それがわからなければ、絶対悪として断ずることは難しい。
 加害者と被害者という二項対立に落とし込むのは簡単だが、それぞれがどんな立場に立って生きていたのだろうかということも考えなければならない。

 同時に疑問に思うのは「ネイティブとは何か」ということだ。
 私の勤務校でも外国出身の英語話者の教員のことを「ネイティブの教員」と呼ぶ。ここで言う「ネイティブ」というのは「母語」という意味だろう。日本語のニュアンスでいえば「おのずから」に近いものである。
 ネイティブアメリカンも「白人入植前から住んでいた先住民」という意味だ。ここにも「おのずからアメリカに住んでいた」というニュアンスが受け取れる。
 しかし、本当に「おのずから」なのだろうか。
「ネイティブアメリカン」という名称自体は極めて「人為的」なカテゴライズと言えるだろう。白人が入植しなければ、「ネイティブアメリカン」という名称は発生し得ず、「白人」と区別するためにその名称がいわば「捏造」されたのである。よく喩えで出すのは古代ギリシャにおける「ヘレネス」と「バルバロイ」だ。自民族を「ヘレネス」と呼称し、外部の民族を「バルバロイ」と呼ぶことにより、自民族の正統性を強める。これは「ネイティブアメリカン」も同じことだ。語の意味は「おのずから」だが、語を使うこと自体は人為的である。
「母語を喋る」という意味の「ネイティブ」も人為的なニュアンスが読み取れる。「母国語」も、近代国民国家をつくる要件として要請があって作られたものだ。日本でいえば「標準語」は近代になってから国民国家「日本」をつくるために明治政府が制定したものだ。「母国語」「native language」も極めて「人為的なもの」なのである。
 言葉は様々な概念を覆い隠す。それは「ヒトラーの忘れもの」の中で論じた通りだ。主語は、各人の顔を覆い隠す。
 我々が享受しているあらゆるものが歴史的な過程を経ながら人の手によって作られたものに過ぎない、ということを忘れてはいけない。我々にとっての当たり前は、実は当たり前なのではないのかもしれない。

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