見出し画像

北見薄荷の人文科学(3);知的魅力満載の北見ハッカ産業史概略(昭和)

 大学基礎化学実験のもつ文理融合のポテンシャルについての私の考えは後に回し、その前段階として、北見薄荷のテーマがどういう文理融合を示し得るのかをお伝えしたいと思います。今回は・・・昭和時代の歴史は長いので簡単な総括程度になってしまいます。

1.サミュエル事件後

(「」内は日本産業史大系2 北海道地方篇、昭和35年からの引用)

 さらに大正八年ごろから「薄荷取引の投機的性格が甚だしいものとなった。思惑による先物取引や、はては空券売買まで盛んに行われるようになって、薄荷の取引はさながら賭博と化し、これらの薄荷商人によって脳かは適当にあしらわれる状態であった」。

2.ハッカ工場の建設とその後

「このような薄荷取引の弊害に対する農民の自覚は次第に高まっていった。やがて、昭和二年には、取卸油の道営検査を実現し、昭和六年には、北海道信用購買販売組合連合会による薄荷の共同販売事業を開始し、ひきつづいて昭和八年には北販連北見薄荷工場を野付牛に設立して、その製品をみずから輸出するようになり、サミュエル事件以来懸案の自主販売統制を実現した。その後、外貨獲得の貿易政策とあいまって、薄荷王国をつくりあげる」。

3.薄荷工場操業から閉鎖まで

 (昭和の流れは複雑で長いので、ここではとても荒っぽい概略のみとします。詳しくは別の記事かマガジンに書きたいと思います)

 この訴訟事件が解決したあと、精製工場を持たない農民の自衛策として、北農連は昭和6年からハッカ取卸油買入を始め、昭和8年に北見市に精製工場を建設し、全道の取卸油をこの工場で精製し、製品の販売は商人の手にまかせることにした。
北見地方のハッカ耕作は昭和13年に11,656町歩、同14年には19,150町歩(全国作付の85%)に達し、ここで世界シェア70%を記録している。
 しかしその後、昭和19年には3,600町歩、同22年1,150町歩、同23年770町歩、同24年650町歩、同28年、29年230町歩と年々減反の度を深めていった。北見のハッカがブラジルに移植され、そのブラジルのハッカ、またはブラジルを圧倒し始めた中国のハッカに日本のハッカが圧倒されはじめたのである。
そして最後、昭和58年に北見ハッカ精製工場が操業停止となった。



※画像の無断転載を禁止します

 


読んで頂いてありがとうございます! クラウドファンディング支援募集中。もしよろしければ、魂のご支援を!!