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大きな経済と小さな経済

人口が本州で一番少ない市である石川県珠洲市で暮らした約1か月間。たったか月という短い期間の中でも本当にたくさんの経験をさせてもらった。その暮らしの中での特に印象深かった経験を何回かに分けて書いていこうと思う。

今回は地元若手農家Kさんの畑の手伝いをする中で目の当たりにしたことを。ゼミでは何度か話題になったこともあるフードロスの問題。その時に話していたのは、主に消費の段階での問題だったと思う。しかし、実際に生産の現場を見てみると、僕たちが普段目に見えていないところでこんなにも衝撃的な起きているのかと驚愕した。そしてそれは、根本的な経済の在り方が原因にあるように思えた。

出荷できないブロッコリー

僕がお手伝いさせてもらった作業の1つがブロッコリーの収穫。まずびっくりしたのは、朝4時集合を言い渡されたことだ。ブロッコリーは花が咲く前の蕾を収穫して食べる。日の当たる時間だと花を咲かせてしまうため日が出る前に収穫するそうだ。そして出荷場所に持っていかなければいけないのが8時半。移動時間も含め約4時間の間に、広大な畑をいつもは1人で全てまわるそうだ。僕はその1日限りだったが、農家の方は収穫時期はそんな気が遠くなる作業を毎日やってると想像するだけでも頭が上がらない。

最初は茎をカッターで切るのが下手くそでボロクソ言われたが、徐々に慣れていき4時間きっちり収穫作業をした。その日は僕含め4人いたため、いつもより多く収穫でき、30個のブロッコリーが入っているコンテナを約30コンテナ分収穫した。実際に見てみないと想像はつかないかもしれないが、かなりの量だ。それを8時半にJAにもっていき、出荷できるものを1日かけてチェックしてもらう。そして基準を満たしていないものは夕方ごろに返却される。それまでは、かぼちゃの畑で作業を行い、早朝から夕方まできっちり働いた。背が高めの僕が畝にある野菜と向き合うには、他の人よりも深く腰を曲げなければいけず、普段使わない身体の使い方をしたので相当疲労がたまっていた。そんな状態の中で、1日の最後の作業として返却されてブロッコリーをJAに取りに行った。すると、僕らが収穫した約30コンテナのうち7コンテナ、つまり約4分の1が見た目的にはあまり問題がないにも関わらずスーパーで売ることはできないという判断なるのだ。

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その1つがこれ。Kさんがが見るとこれは明らかにダメらしいが、素人目では何がだめなのかサッパリわからない。ブロッコリーは鮮度が命で数日放置すれば花が咲いて食べる気がでるような状態ではなくなる。もちろん基準は野菜によってはばらばらだが、出荷で数日かかるため、ブロッコリーに関していえば少しでも花が咲き始めていると予め排除されるのだ。Kさんは、「農業とはこういうもの」と諦めに近いような感情を抱いているようだった。

顔の見える関係性

しかし、出荷できないブロッコリーもそのまま放置していくわけにはいかない。そこでKさんは、Facebookで出荷できないブロッコリーを安く売るという旨の投稿をした。すると、短時間の間で「是非買いたい!」という熱量あるコメントが10人弱の人から来ていた。Kさんは、これだけの反響があるとは思っていなかったようで、予想外の出来事に驚いた様子だった。一方で、行き場を失っていたブロッコリーの引き取り手が見つかってとても嬉しそうでもあった。Kさんは農作業終わりで疲れている中、ブロッコリーを一軒一軒配りに行った。

これだけ多くの人が、出荷できないブロッコリーを「買いたい」と手を挙げたのはKさんと顔の見える関係性だったからだろう。全く知らない人が作った出荷できないブロッコリーだったら、「どうせ傷んでるんでしょ?」となり恐らく買おうとは思わない。基準に達しスーパーの棚の上に並ぶことができた野菜の前ですら、少しでも傷んでいないものを選ぶ人が多いのだから、スーパーの棚に並ぶことさえできなかったものには目も向けないのが一般的な感覚だろう。しかしそれが知り合いのような顔の見える関係性の人なら、たとえ出荷できないものだとしても、多少のことなら気にしないと自然と心を許せてしまう。それは、このやりとりが単なる資本主義的な交換ではなく、ある意味で知り合い同士のコミュニケーションのようなものだからだろう。つまり、野菜を配りに行くというよりは、その人と会って話にいっているのだ。珠洲にいる間は、よく地元の方はお裾分けしてくださったのだが、それは単に残り物があるからとか、喜んでほしくてお裾分けしたくて来ているというより(もちろんそれもあるかもしれないが)、ただただ喋りたいからお裾分けにしに来ててくださっているように思えた。

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大きな経済から抜け落ちるもの

出荷されなかったブロッコリーは、大きな経済の中では抜け落ちてしまったものだ。言い換えれば、今の経済の仕組み自体がこのフードロス問題の一端を担っているのだ。実際に食べてみればこんなにおいしいのに、何故そうなってしまうのかという点では憤りを感じる部分もある。しかし、だからといって大きな経済を否定するつもりはない。当然のことだが、Kさんをはじめとする農家の方たちは、大きな経済のお陰でお金を稼ぐができ、それで生活ができている。そして僕たちも、いつどこにいても一定水準のモノを変えるということに大きな恩恵を受けている。これを否定してしまったら、今の水準での生活はできなくなってしまう。しかしその一方で、大きな経済の中では、食料に限らず市場に出るための基準に達しないモノは、まるで最初から存在していなかったように抜け落ちていく。小さな経済は、そのような大きな経済からは抜け落ちていったモノを拾い、循環させていく場になりうるのではないだろうか。

小さな経済の在り方

このようなことを経験しぼんやりと考えていた数日後、東京のIT企業の方が珠洲に来て、基準を満たさなかった野菜たちを今までとは違うまた別の仕組みで売れないかということを話し合っていた。そのお話を聞いていると、これは新しい小さな経済をの在り方を再構築する可能性を感じ、とてもワクワクした。

しかしその一方で、全て「仕組み化」することが必ずしもいいことなのか?と疑問も残った。「仕組み化」するということは、無駄を省き作業を効率化するということ。農家の方たちは、少人数で広大な畑を見なければいけないため畑作業だけでもかなりの重労働だ。その点を考えると、1日の農作業の後に野菜を配りに行くという重労働を仕組み化すると、無駄な労働時間を削ることができる。それはとても重要なことだ。だが、そのようにして無駄を省くことで、先述したような顔の見える関係性の中でのモノのやり取りの中でうまれるコミュニケーションが失われてしまう可能性が大いにある。出荷できなかったブロッコリーを買った人たちは、もちろん単純にブロッコリーが欲しかったのもあるとは思うが、それ以上にKさん顔の見える関係性だからこそブロッコリーを買ったのだ。それが例えば、毎日定時にKさんが作った野菜で出荷できなかったものが配達されるという仕組みであったら、それを今回と同じような熱量で購入したいと思えるだろうか?

小さな経済の中では、大きな経済の中とは違って合理的なことが必ずしも真ではなく、時間をかけて一見無駄な作業をすること自体に意味があるのだ。どこまで仕組み化・効率化して無駄を省き、どこまで無駄を許容してコミュニケーションを大切にするか。これに絶対的な正解はない。自分が何を大切にしたいかによって、そのバランスは変わる。重要なのは、自分は何を大切にしたいかを考え、自分の中での最適解を見つけいていくことのように思う。

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