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旅立ちの日

昨日、次男が埼玉の専門学校に通うために、妻と引っ越しに旅立った。

そのため、今日は妻の代わりに三男坊の早朝の練習試合の送迎にいくことになった。学校への近道を教えてもらったが、その道はその昔、ぼくが高校通学にいつも通っていた道だった。

国道ではないので、車がすれすれですれ違うような細道を、毎日40分かけて自転車通学をしていた。いつも一緒に行く仲間が4人いて、前後二列でしゃべりながらいくものだから、さぞ車の迷惑だったことだろう。まぁ、じっさいはそれほど車も通らない道だったけれど。

今日、三男坊を学校へ送るために久々にその道を通ったけど、その細道のすぐ脇に万九千神社が立っていたことに驚いた。



出雲神話で旅立ちの日といえば、神等去出祭(からさでさい)が挙げられる。

古来、全国では旧暦十月を神無月(かんなづき)というが、出雲では神在月(かみありづき)と呼んでいる。

全国の八百万神が出雲に集まられ、国家安泰、五穀豊穣、縁結び等の神議(かみはかり)をなさるからだとされている。 八百万神は、出雲大社、佐太神社など出雲国の複数の神社に滞在のうえ神議をする。そして万九千神社においても、旧暦の17日から26日までを神在もしくはお忌みと称して、神在祭を齋行している。

そして神議が滞りなく終わると、最後にこの万九千神社から八百万神は地元に帰って行かれる。

まさに旅立ちの日だ。



高校の3年間、毎日のように、その万九千神社の横を通っていたというのに、それに気づきもせず、全く関心を持たなかったというのはどういうことなのだろう。学校で出雲神話を教えてくれるはずもなく、友達の間で出雲神話が話題に上がることも一度もなかった。まぁ、それが普通のことなのかもしれない。

気づきということは、思わぬきっかけで興味を持つことである。それには適した時間が必要であり、適した場所も必要である。

いくらすぐ隣を自転車で通っていても、そのときがこないとわからないこともあるのだ。

長男、次男と立て続けに旅立ちの日を迎えたわけだけど、彼らに教えることはまったくないと自信を持っていえる(そんなことに自信をもってどうする)。ぼくは(奇跡的に)教育方針を持たないできた(いばれることではない)。

そうはいっても、旅立ちの日というのは誰にとっても貴重だ。どこでどのような出会いがあるかわからないけれど、それがよき気づきになってくれればいいなと思う。

そんなことを万九千神社脇を通りながら思った・・・。



今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

みなさまにもよき旅立ちの日がありますように。

出雲に訪れた際は万九千神社もお立ち寄りください♪

お待ちしています♪



こちらでは出雲神話から青銅器の使い方を考えています。

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