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神社は風呂

日本には神道という思想体系がある。体系と言っても良いものかどうか、疑問のあるところだが、神社は各地に無数に存在する。

神社には教義がない、経典もなければ、聖書もない。
個人が個人の意思で自分の穢れを払う場所とかんがえられている。
といことで、神社は、教義に基づいて活動している宗教には分類されない。

日本人は、自分は自然の一部であり、死ぬと自然に帰ると思っている。
道端の石ころ、そこいらに生える雑草、空に輝く太陽、ワンワンと鳴いている犬、空から降ってくる雨、全てを自分の一部と考え、自分もその一部だと考えている。

日本人の考えは、世の中の全ては自然の営みでうまく行くものであって、困ったことや、うまくいかない事があった場合は、『自分が悪い』、『自分が汚れている』と考えて、自分の身を正す。

その穢れを払う場所が神社だったのだ。

縄文時代が16500年も続いたのは、決して人のせいにせず、お互いに自分が悪いと身を制してきたからだ。

時代が過ぎて、宗教が外国から入ってきて、善悪を説くようになってきた。
さらに、こうすれば『ご利益がある』などと損得勘定を持ち込むようになった。

そもそもこれが、競争、戦争の始まりだった。

振り返って、神社とは何?
と考えると、風呂と答えるのがふさわしいと思いついた。

体の汚れではなく、心の汚れを取り除くための非常に高度な思想体系だったのだ。

一生風呂に入らない人もいれば、毎日欠かさず入る人もいる。全く個人の自由だ。

最近、神社でご『利益』などという言葉を使っている人がいるのを見て悲しく思っているのは私だけではないと思う。

ご利益、損得、善悪、天国地獄は宗教用語で、神道には関わりのない言葉であり、あまり聞きたくない、使いたくもない。

コンピューターのマシンコードを使った事がある人なら直感で理解できるが、
『お願いします』と『私にはできません』とは同義語だ。
『あの人はいいね』と『私はダメ』とが同義語、on off スイッチの傾きと同じ、これは深く考えるべきだと思う。

例えば神様に
『お金が欲しいです』と言えば頭の中では『自分は稼げません』と変換される。
『結婚したいです』は『自分は結婚できません』と変換される。
『・・お願いします』は『自分は・・できません』と変換される。

人間の思考回路はコンピューターと酷似していて同じように働く。
なので、お金が欲しいですと言えば、自分は一生稼げないことを自覚して、脳のプログラムは自動的に稼げないシステムを作り上げ、稼げない環境を選び、稼げない活動をする。

非常に単純だけど強力な作用が働くので、神社でお願いをするのはやめた方が良いと思う。


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