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大学院警備員の小砂15:計画的偶発性ー偶然のチャンスを呼び込むー

ここの話は私が20代の頃のしょうもない経験と考えたことを元に回想し、解釈しているだけで、必ずしも正しい知識ではないことが含まれていることをあらかじめおことわりしておきます。
1992年、夏。私は朝の新聞配達以外は「引きこもり」のような生活から少し歩みだし、20歳の時に東京江東区のとある高層ビルで警備員のアルバイトになりました。夜間のアルバイトです。そして、夜勤の警備員アルバイトをしながら、21歳の時に大学生になりました。
24歳で大学を卒業し就職をせずに、自動車工場の期間工を経て、25歳で大学院に入学しました。こんどのアルバイトも警備員ですが、場所は病院です。

大学院に進学しての変化は、より一層の精神的な自由を持ったことです。いつもの警備員のアルバイトをしながらも、時間の限り勉強できる。

私の所属する専攻は学際的なところでした。独立大学院だったこともあり、内部進学組もいませんでした。みんな、異なる大学の出身者です。出身の専攻も、教育学、法律学、経済学、スペイン語、ロシア語、建築学と様々でした。年齢層も私より年上も年下もいます。社会人を経験した後、青年海外協力隊員としてそれぞれアフリカに派遣された経験がある2人の女性が同級生でした。このようなメンバーで、少人数の授業が楽しくないわけがありません。

この研究科にはほかに、経済学を主とする専攻と政治学を主とする専攻があり、かれらも同じ研究棟のフロアにいました。修士課程の1年生はいわゆる「大部屋」の住人です。広い部屋にパーティションで区切られた机が並び、個人にあてがわれます。細々したことは先輩たちに聞きながら覚えていきます。

修士課程2年目以上になると、少し小さな部屋で同じ専攻の学生が学ぶことになります。なんにせよ、大学に自分の机があり、24時間利用することができます。どの時間にやってきても、誰かは研究している場所です。

この研究科の気に入っていた点は、大学院生の年齢やバックグランドが多様であったことです。すでに紹介したように、青年海外協力隊を終えてから、その経験を振り返り学ぶひと、中等教育学校の教員をしながら社会人として学ぶひと、仕事を辞めて学ぶひと、国際公務員になるために学ぶひと、開発援助の専門家を目指す者など、いろいろな目標を持つ者が集まっていました。

関連業界の世界は狭いもので、当時の同級生は、私がそののちに南部アフリカのザンビアに2年間赴任した際に同じオフィスで再会しました。また、当時、隣の専攻にいた同級生はのちに勤務する大学で教員として再開しました。思っていたよりも、「狭い世界」に入り込んだようです。

博士後期課程の学生まで含めると、国籍、年齢、性別、専門、出身地などなど関係なく、人が交流していて、夜な夜なソファーに寝ころびながらぶつぶつと国際論文を読む人、研究室で生活しているんじゃないかと思われる先輩方、給湯室でスパイシーな料理を作っている留学生などが溢れておりました。ここでは、私がかつて考えていた「年齢至上主義」がすっかりと見えなくなっていました

クランボルツはキャリアにおける「計画的偶発性」の重要さを述べています。そして、「人生は計画通りにはいかない。しかし、偶然のチャンスを活かしながら、少しづつ軌道修正して目標に近いキャリアの道を歩むことができる」とも言います。

そして、そうした偶然のチャンスに出会うためには、それがチャンスであると気づくセンサーが必要で、とにかく「①好奇心、②持続性、③柔軟性、④楽観性、⑤冒険心を磨く毎日の努力が大切」と言いました。ここには、そんなことを日ごろから実践している人たちがいたように思います。

そのような場所で生活することで、はじめは自分の圧倒的な語学力の低さ、圧倒的な数学力の低さ、圧倒的な経験の少なさを痛感しました。

私が専攻した分野の先生は当時まだ助教授だったので、制度的には指導教官になれませんでした。そこで、他の分野の教授に形の上で指導教官をお願いし、それぞれ2つのゼミで学ぶことになりました。

その教授がジェンダーについても研究されていた関係で、私は初めて「ジェンダー」というものを学ぶ機会に偶然出会ったのでした。計画的偶発性が再び動き始めたようでした。



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