断片:哲学する者の役割

上記記事を読ませていただいて、思ったことなどをつらつらと。

「哲学をすること」それ自体は哲学者の専売特許ではなくて、思考をすることができる人間であれば誰でもそれを成すことは可能だと考えるのですよ。わざわざ「哲学者/思想家」などと名乗らなくてはいけないのは、業として、つまりは「飯の種としてそれをする/している」人達に固有の問題ではないかと。そういう意味では「へえ、あんたも哲学者だったんだ/人は誰でも哲学者なんだよ」と言っても間違いではない。哲学しなければ生き残れない!かどうかは定かではありませんが。

ただ、「哲学をすること/思想を持ち語ることを業とする」ことの最大の問題は、「それが価値あるものと認められなければならない」ことではないか、と考えます。嫌な言い方になりますが、「哲学することが市場価値を持たなければならない」ということで。まあ、市場と一口に言っても様々で、コンビニの書籍コーナーに並ばなければ意味がないのか、あるいは「選ばれたお客様だけの限定サービス」として成立するか。こういう違いはアリではないかと。現実問題としても、書籍という形で哲学者のアウトプットが売り買いされている一方で、メインの市場は閉ざされたアカデミアでの評価に限定されているケースも少なくない。というか、哲学学者が求める評価はもっぱら一般消費者からの支持よりは、アカデミア内部での評価であり実績でしょう。私達の多くが目にする「哲学」は結局のところは「選ばれた一部の人のためのサービス」であると言える。それが回り回って「哲学の劣化」に結びついているように思います。

「哲学村」のなかで評価を受けていたとしても、それが実社会の諸々に適用されたときに「無意味/無価値」の評価を受けるのであればそれは「仲間内の言葉遊び」に過ぎない。誰もが哲学者という言葉の本意は、「あらゆる物事には哲学すること/思索をすることがついて回る」ということでもあります。リアルな物事と結びついていかない「哲学」はその名を冠するにふさわしくない。「哲学だって?大層な名前だねえ、お前の名前は今日から言葉いじりだよ。わかったかい、言葉いじり」と言われても否定出来ないんじゃないですかね。HIPHOPのラップバトルのほうがまだコミュニケーションを経るだけ哲学に近いように思います。まあ、あれは曲の形で「生き方」を語るものでもあるわけですし。

どうしたらいいんでしょうね。

見方を少し変えてみましょうか。私達の社会のどこに哲学があるのか。
よく言われる話ですが、哲学は自然科学一般を含むあらゆる学問とそれから派生する技術の母でもあります。「我々をとりまく世界とは何か?」を問うことから自然科学は産まれ、それを応用操作することで諸々の技術が産まれた。現在でも、特に医療分野においては「生命倫理」が語られますが、私達の社会を動かす「力」と哲学は現在でも切っても切れない関係にあります。つまり、私達の社会には哲学が、哲学が課題とするもので溢れていると言えるのではないか。先にも書いた通り「人は誰でも哲学者」なのですよ。私達人間が思考を繰り返す存在である限り、それは日々哲学として「何か」を生み出している。ただそれは意識されないことなので誰も認識していない。ただそれだけのことだと考えます。

現代おいての「プロ哲学者」の仕事はここにあるんじゃないでしょうか。
断片的に存在する哲学、明確な形になっていない思索/思想、そういうものを拾い集めて分類し、太古から脈々と伝わる「哲学史」に位置づけ関連付けていく。こういった作業はアカデミズムの訓練抜きには成立しないと考えますし、ならばそれこそが職業哲人の役割にふさわしい、と言えましょう。売り言葉としても「丹念なフィールドワークを重ねて、社会の中で埋もれていた知見/知性/思索を見出していく」というアピールは、大衆受け(笑)も良いのではないか、と思います。自分達のことを認められて嬉しくない人は極稀ですからね。「埋もれていた大衆の知性こそが現代の哲学である」とでもコピーをつければ、十分売りになるように思います。

こういう思考実験も必要なんじゃないですかね…

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