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応援傘

 「もしかしたら、明日、死んじゃうんじゃないかしら」

 少し薄暗くなってきた廊下を歩きながら、香織はそんなことをぼんやり思っていた。右手にはちょっと小ぶりのビニール傘。

 死んじゃう、というより、存在が消えてしまう?消滅してしまう?そんなイメージ。

 家族に不満があるのではない。世の中がつまらないわけではない。今日も親友の敏子と一緒に大笑いした一日だった。確かに、担任の小宮に眼鏡越しにスカートの丈を注意された時には嫌な気持ちになったが、その後の『憧れの大塚先輩と目が合った、合わない』の盛り上がりで帳消しにしてやった。給食の唐揚げも美味しかった。週末の遊ぶ約束や、今月もイベントが盛り沢山で退屈している暇もない。

 なのに時々、一人になった時にふと、例えようのない虚無感に襲われる。

 私って、何をやりたいのだろう。

 硫黄臭い理科室前の廊下を足早に抜けると、香織は突然足を止めて窓の向こう側に目をやった。番号のついていないユニフォームを着た野球部員がグラウンドの土をならしている。その中に紛れている坊主頭。同じ小学校だった矢野だ。

 どうして矢野はあんな雑用に夢中になれるのだろうか。香織は錆び付いた鍵を強引に回すと、力ずくで重い窓を開けた。ホコリっぽさが辺りに広がる。しかし、入ってくる土のにおいでそれもすぐ気にならなくなった。

 日々、筋トレ、球拾い、片付け、ボール拭きの繰り返し。なのに、矢野は一言も文句を言わずに黙々とこなしていく。近頃は、その背中がやけに逞しく大きく見えるようになった。

 矢野が試合に出はじめたらどうなるのだろう。バーンとはじけてヒーローになっちゃうかもしれない。見てろよ!コノヤロウ。などと、傘を振り上げながら遠くでワクワクしている自分が、なんだかこの場に存在していない、外野自由席の隅っこにポツンと座っている観客のように香織は感じていた。

 矢野の投げたボールが頭にあたって重症っていうのもおもしろいかもしれない。そうすれば、自分も参加していることが自覚できるのに。

 香織は手にしていた傘をバットのように構える。

 「香織はさぁ、どこの高校を狙っているの?」

 後ろから不意に声をかけられたが、香織は驚くことなく「うーん」と返事をした。人の気配は感じていたが、気付かぬ不利をしていただけだった。敏子だった。

 「興味ないな。それより、台風15号がこの辺を直撃するかどうかの方が気になる」

 あとは、今夜の野球放送が延長になるかどうかも心配。香織にとっては、夕飯のおかずもテンションが上がる下がるの重要なポイントだ。今読んでいる推理小説の結末も。明日の朝、肩までのボブがはねずにうまく整うかも気がかり。
 
 心配事が一通り頭の中を通り過ぎると、大きなため息がひとつ、香織の口から漏れ出した。手のひらを見ると窓枠の汚れがくっきりと二本ついている。

 「この傘でさぁ。ここから飛べるかな」

 前から試してみたかったんだよね。香織は窓から傘を突き出すと共に勢い良く広げたが、そんな弱っちい傘じゃ無理でしょ、と即敏子に却下された。

 「私はこれから塾なんだ」敏子は窓枠に寄りかかりながら天井を見上げた。ゆるく結んだ三つ編みが背中に流れる。

 「大変ね」

 「小さい頃からずっとそうだったから、大変だとは思わないけど」

 そっか。香織は制服の袖に手をこすりつけると、窓枠に傘を引っ掛けながら空を仰いだ。薄い水色が高く黄色く薄い雲を描きあげている。その中の一つが、シロツメクサの花のようにふんわり手前に浮いていた。

 「ねぇ、あの雲、シロツメクサに似てない?」

 「私には一輪菊に見える」と、振り向きながら敏子が目を細める。「ところで、シロツメクサって、どんな花だっけ?」

 視界の隅で、矢野が素振りをはじめた。校舎の影が、グラウンドにどんどん伸びていく。

 「簡単に言っちゃうと、矢野みたいな雑草」
 
 香織はビニール傘を手に取り大きく振り上げると、大声で東京音頭を歌いだした。

 少しだけ、憂鬱な気持ちが軽くなっていた。

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