左と右とクィアと<わたし>

2018年4月20日付けのニュースで、「あぁ、これは極めてフランス的な考え方だな」と思ったことがあった。ニュースの一部を抜粋すると、概要は以下のようなものである。

「市民権授与式で主催・関係者との握手を拒んだイスラム教徒のアルジェリア人女性にフランスのパスポート発給を認めなかった政府の決定を支持する下級審判決を維持し、原告側の上訴を棄却した。」("Muslim woman who refused handshake denied French citizenship", 2018)

女性が、自らの意志で、宗教的な理由に基づき、握手を拒む。その拒む態度というものは、フランス社会で行きていくためには受けいられれないのである。女性は、自分の意志であっても、握手を拒んではいけないし、フランス流の正しさに染まれないのであれば、その国にいる資格はない、というニュースである。
上記の事例は、非常に単純化すれば、白人中心的なフェミニズムであると批判されるだろうし、西欧中心的な「正義観」に基づく、また、フランス的なナショナリズムに基づく排斥行為であると思う。

一方で、同じ頃、ベルギーにおいて、イスラム教の政党が28の地方議会での選挙へ立候補するというニュース("Islam party in Belgium wants to create an Islamic State and separate men and women", 2018)が飛び込んでくる。当政党は、2012年にすでに2人の候補者が当選している。記事によると、公共交通機関での男女別の利用を目指すこと、コーランの教えに従うことなどを目指している。明らかに彼らの主張が実現されたら人権侵害なのであるが、ここに多様性を認める・認めないの、現在直面している課題がある。
上記のベルギーの事例は、文化相対主義的で、あらゆる多様性を受け入れなければならないという観点を推し進めた結果、「人を排除する自由」「人を差別する自由」も受け入れている事例である。

では、わたしたちは、どこまで「他者を排除する人を排除」すればいいのか?
それとも、「すべての人を受け入れる人のみが生きるに値する社会」を作るべきなのか。そのことを推し進めて考えてみると、フランス的価値観はおそらくダメであろう。また、ベルギーのイスラム教の政党についてもダメだろう。ダメなものだらけになる。
そうして残るものはなになのか。結局のところ、「すべてを受け入れるべき」だという価値観の強制そのものが、排斥だというトートロジーに陥ってしまう。
もちろん、「それなら市場が決定するよ」なんて言い出すやつは論外なのだけれども。

答えは、たぶん、
私を受け入れない<あなた>は、すでに、<わたし>である
という返答なのではないか。
つまり、まだ明確に文章化できていないのだが、「<あなた>と<わたし>」の捉え方そのものの転換が解決の鍵になるのではないだろうか。

【参考文献】
Muslim woman who refused handshake denied French citizenship. (2018, April 20). PARIS(AFP). Retrieved April 28, 2018, from https://www.straitstimes.com/world/europe/muslim-woman-who-refused-handshake-denied-french-citizenship

Islam party in Belgium wants to create an Islamic State and separate men and women. (2018, April 6). VOICE OF EUROPE. Retrieved April 28, 2018, from https://voiceofeurope.com/2018/04/islam-party-in-belgium-wants-to-create-an-islamic-state-and-separate-men-and-women/

にじいろらいと、という小さなグループを作り、小学校や中学校といった教育機関でLGBTを含むすべての人へ向けた性の多様性の講演をしています。公教育への予算の少なさから、外部講師への講師謝礼も非常に低いものとなっています。持続可能な活動のために、ご支援いただけると幸いです。