講師謝礼とネオリベラリズム

「ところで、講師料はいくらぐらいでしょうか?」

とある公立の小学校から講演依頼が来た。ふむふむと読み進めていて、最後の一文に目がとまった。講師料の問い合わせか…とため息を付きながら、メールを書きはじめる。もちろん、講演を依頼してくださるのはとてもありがたいし、私は、私の拙い講演でよければ、たくさんの生徒に聞いて欲しいと思っている。講師料を期待してはいけない、と思いながら返信画面を開き、「ご連絡いただき、ありがとうございます」と定型文を打ち込む。ちょっと迷いながらも、

「講師料は、基本的には2万円でお願いしていますが、学校現場でご予算の都合もあるかと思いますので、相談に応じています。」

ご検討下さい、と書き、メールを送信する。正直なところ、2万円でも安いのである。なぜなら、私の講演は、私の過去の苦悩が詰まっていて、身を切る思いで講演をしているからである。それだけではない。100冊を超える文献を読み込んで資料を作成しているし、大学を卒業して、修士、博士課程に在学していて、専門として、多様性について研究している。私に価値があるかどうかは別として、結構、私は、お金のかかっている人間である。(=奨学金という名の借金がある。笑)
それに、交通費はかかるし、依頼先の先生とメールのやり取りを行い、電話での打ち合わせもコストである。スライドはその日のために、全て新しく作成することはなくても、時間を割いて調整をしている。2名以上でなるべく行くようにしていて、一緒に行く人への謝礼は必要になる。そして、当日も、半日は講演のことに心を砕くのである。細かいことを言うと、講演謝礼というのは、10%ほどの税金が取られてしまうし…とまぁ、そんなこんなを考えると、講演依頼が定期的にあるわけではないのだから、単発で都合のよいときだけ活用される、ということを踏まえれば、1時間2万円というのは、決して高い金額ではない。むしろ出血大サービス価格である。10万円もらっても適正ではないかと正直なところ思っているぐらいである。
それでも、「たぶん、2万円は無理だろうなぁ」と思いながら、このメールを送ったのだった。
2万円というのは、公立の学校にとっては、雲の上の金額なのである。

「学校経営が苦しいらしく、1万円ではダメでしょうか?」

翌日、先生から丁寧に1万円が限界である旨のメールが届く。
「ですよねー、わかっていました、言ってみただけなんです」と心の中でつぶやきながら、すぐさま、「はいはい行きますよ」と思い直して、メールを書き始める。こうして、講師謝礼はデフレ化していく。長期的にみれば、LGBT研修や講演を行う者たちの今後の地位の問題として、断固として、私は断るべきなのだけれども、引き受けてしまう。なぜなら、今、苦しんでいる子どもたちはいるし、その子どもたちがよりマシな生活をするためには、私は、私の講演が「今」必要だと、信じているからだ。そうして、グローバル経済の恩恵を受けまくっているファーストフード店舗なんかでハンバーガーを食べながら打ち合わせをして、1万円の謝礼(交通費込み)を2人で分けたりして健気に講演をしているのである。
そういうことが、当たり前になっていることを私は危惧している。講師への対価に関する人々の感覚も、デフレ化しているのである。

そういうときに、あぁ、ネオリベのせいだよ、これも、と教育への拠出の縮小を感じるのである。
ネオリベ体制においては、教育・福祉は削られる傾向にある。全てが市場原理に基づき決定される場においては、公教育には価値がない。本来的には、将来の労働市場、消費する主体を生み出すためには、公教育への全体としての投資は必要不可欠なのであるが、短期的な金銭的価値を追い求めるあまり、私たちは、教育への投資をどんどん怠っている。
私たちは、クーラーの付いていない学校の現実については知らないし(コンピューター室だけ付いていることもある)、古い和式トイレばかりの学校のことも多くの人は知らないし、そんな政府を批判しないし、保護者も、市の教職員の賃金を抑制するような決まりが作られても、反対するどころか、諸手を挙げて喜んでいるありさまである。格差を固定する政策に賛成してしまう、そんなおバカな、わたしたちのツケは、最終的には子どもたちに向かうのだが、まず、私のような外部から呼ばれる人権講師や学校の先生へと向かう。そうして、なんとか踏みとどまっているのが現在の状況なのである。
しかし、考えてもみてほしい。未来の子どもたちへの大切な性の多様性を伝えるための人権講師への支払いが、1万円ぽっちでよいのだろうか?(2人で行く場合は、5000円/人である。)
それで、新しい本を買ったり、新しいPCを買って資料を作成したり、講師が知識をアップデートすることは可能だろうか。
質の高い講演を継続的に行うことは可能だろうか。

私がいくら、クィアな(規範を疑い・規範に抗う)講演をしたところで、私の講演活動そのものが、ネオリベラルに毒されてお金のない日本の教育機関という環境によって、絡め取られていくのである。

もちろん、それでも依頼して欲しい。この文章を読んだからといって、依頼を躊躇はしないでほしいとは思う。1万円だろうが行くし、場合によっては、無料でも行く。なぜなら、私は、私が小学生だったとき、中学生だったとき、高校生だったとき、そんなときに、ゲイの人の話を聞きたかったからである。私の苦しみを再生産したくないし、私よりもはるかに賢い若者がよりよい解決策を提示してくれることを願っている。私は、いつだってギリギリのところで踏ん張っているし、ギリギリの人とともにいる。それでも、ネオリベと教育と人権の関係は、(とっても単純化したけれど)よければ知っておいてほしい。どこかの誰かが立ち行かなくなっても、みんなで少しずつ出し合って、生きていける社会であってほしいと願っている。

金銭的な価値にすぐさま還元できない、次の世代の意識を変えていく試みに対して、もう少しだけ社会全体で、支払いをしてもらうことはできないんですかね?とぶつぶつ思いながらも、私は、

「承知しました、1万円でお伺いしますね」

とメールを返している。

にじいろらいと、という小さなグループを作り、小学校や中学校といった教育機関でLGBTを含むすべての人へ向けた性の多様性の講演をしています。公教育への予算の少なさから、外部講師への講師謝礼も非常に低いものとなっています。持続可能な活動のために、ご支援いただけると幸いです。