見出し画像

学生時代の後悔ー大学モラトリアム時代は終わるかも知れない

こちらの記事を見て、驚愕し、大変同意をした。

私もある程度の貧困を抱える家庭で育ち、偏差値上位の有名国公立大学に学習塾無しで現役合格し、両親の年収と成績も相まって、授業料の大半が免除された。また、在学途中からであるが、2020年からの日本学生支援機構奨学金の給付奨学金が始まり、受給対象となった。これまで税金で学ばせていただき、貧困家庭から大学に入学したものとして、国公立大学の恩恵を大変に享受した。その身からすれば、今回の慶應義塾大学、伊藤学長の「国公立授業料3倍」発言は、そのタイトルだけでは、「ふざけてるんじゃないのか」という印象しかなかったが、先程の記事を見て、その真意を知り、大変納得させられた。

一番のポイントは、確かに、「貧困家庭の優秀な学生への配慮」以外に国公立大学のみの学費を削る理由がない。そして、その貧困学生への対応は、特待生制度や奨学金の充実によって賄ったほうがより効率的ではないかと思う。ギリギリ「貧困層」とは認められないが、大学の高い学費を払えるほど余裕はないような家庭の子供にも、段階的に支援制度を用意すればより合理的だろう。そう考えると、国公立大学のみ学費を削るのは、国公立大学に入学した裕福な家庭も多いことを踏まえれば、全うではないだろうか。ましてや、学習塾が必須になるレベルの東大京大、その他上位大学にも、裕福な家庭の子供が多く集まり、国費による利益を享受していることはかなりおかしく感じてくる。

また、もう一つ大きなポイントなのは、国や地方自治体・医学界に引き続き、大学も「お金が足りない」「人が足りない」状態に陥っていることである。ここまで深刻だとは思わなかった。もちろん、元々私立大学が多すぎたり、ポスドクの厳しすぎる待遇、論文数低下は問題になっていたが、なぜこのようなタイミングになって急に方々から悲鳴が上がってくるのか、もう少し早く社会に訴えるべきだったのでは、もう少し早くこの議論できなかったのだろうか、と一介の若者としては思ってしまう。今までの様々な審議会の人たちは、本当に現実的な議論をしていたのだろうか疑問に思ってしまう。しっかりしてよぉ〜と言いたいが終わったことは仕方ない。

とはいえ、その「お金たりない」状態、時間もお金も無駄になっている状態に、ほんの米粒程度だろうが、自分も拍車をかけてしまったのではないかと思う。大学で学ぶ意義、「モラトリアム」だ。現在は多少変わってきているとは思うが、私達が子供の頃から、「大学生は遊んでいるもの」という固定観念が大半の人々にあったのではないかと思う。私もその固定観念が抜けず、「やりたいことをやってやる」と言いながら、勉強・研究以上に他の活動・遊びにも精を出していたように思う。「お金無いにも関わらず」である。正直自分でも信じられない、とも思っている。もちろんその代償は、社会人になってからみっちりと払っている。永遠にカネがない人間の完成である。そんな私のことはさておき、ここまで私が遊びに熱を入れてしまったのは、他人のせいにする訳では無いが、周囲の友人と一緒につるむのが楽しかったからに他ならない。周囲との関係は大事に思いながらも、自分の置かれている状況には目をつむり、誰にも言わず人知れず生活が崩れ続けていた。現在の大学生を見ていても、いい意味でしっかり時間に余裕があり、その余裕で遊びもこなす姿が見られる。そういうわけにはいかない大学生も増えているが、やはり都会で目にするのは時間を持て余した大学生たちである。

こうして、本来の大学の目的である、「研究」に対し、ほとんど貢献を残せないまま、また、手に入れた専門知識も直接は発揮できず、文系学部に居たにも関わらずSEとしてプログラミングやテストをやっている始末である。文系からSEになる人は、やはりそれなりにいるらしい。その全員が大学の専門性を活かしていないとは言い切れないが、どこまで活かしているのかは大いに疑問である。ここで敢えて下位と言ってしまうが、下位の大学・学部の中には、研究の参加する機会はなく、講義や授業への参加だけで卒業し、学位を取得できてしまうこともある。日本では当たり前だとは思うが、先人たちが起こしてきた大学の意義を考えると信じられないと思うのではないだろうか。

「モラトリアム」という言葉は、猶予期間という意味を持ち、まさに自信の人生を決めかねている若者たちのための猶予期間に当たるのだろう。私も関心分野が広すぎる上に、論理を精緻に組み立てるのに限界があることがわかり、「研究」の世界から手を引くこと自体は良かったと思っているし、研究・勉強以外の時間も全く無駄というわけではなく、役立つことも多くあった。受験に追われる高校時代までに、自分がどの道に進むべきかは決定しきれないのが普通であるし、齢を経るにつれ、「やりたいこと」が変わってくるのは当たり前である。大学時代の経験は無駄ではなく、無駄に潰したと思える時間も、私自身の人生の中では無駄では無い。しかし、国の税金の利益を多大に享受したことを考えれば、本来出すべき成果、進路を選べなかったことを非常に後悔してしまうのである。

大学も金がないと言っている以上、優秀な教授の時間も、高価な大学の施設や膨大な貴重文献も、「モラトリアム」のために消費するのは非常に良くないように思う。先出の記事でも言われているが、研究にそもそも全く関わろうとは思ってない人、関われるレベルまで学業を積めていない人が、大学の門をくぐれることが、より「モラトリアム」を促し、カネをなくしていくことのつながっているように思う。優秀な人間でも、ビジネスの世界でのし上がるのであれば、大学に入学する必要は無いのでは、と思えてしまう。

持続の見込みが立たない地方自治体もそうだが、大学の学費を上げたり、研究できる体制が整う見込みがない大学は、申し訳ないが畳んで貰うしか無いと思う。そして、大卒者もそんなにいらないはずである。

もちろん、大学を出て、その専門性を活かし、研究以外の分野に進路を取ってもらうのは非常に重要である。しかし、最初から研究に参加しない人たちは、別の教育機関で世の中に必要な知識を学習しながら、モラトリアムを過ごしてもらいたい。その受け皿は、専門学校だったりするだろうが、今までの総合大学にあたった教育機関は、大学という形ではなく、別に用意することが必要ではないだろうか。そこではもちろん社会に必要な専門的な知識や技術を身に着けてもらうが、モラトリアムであるので、幅広く色んな業界、分野の研鑽が積めると良いだろう。それこそ教壇に立つのは、民間企業や団体の実績をもつ人々でいいだろう。子どもたちに民間団体の名前を知ってもらえれば、より優秀な学生を採用する手助けにもなるだろう。

今、社会構造のたくさんの当たり前が崩れざるを得ない状況になっている。今まで人々が抱いていた「安定」はきっと幻想だったのではないかと思う。もちろん変化を起こすときには衝突もあったり、問題も出るかもしれないが、助け合ってそれを受け入れるしか無いのではないだろうか。私自身もそうだが、今までの自分の当たり前をいかに崩せるかが大事になってくるのではないだろうか。少し話が変わるが、自分の当たり前だと思っていることには、才能が眠っているということを、八木仁平さんを始め、多くの人が提唱している。自分の「当たり前」が、他人の「当たり前」ではないことに気づくことは、自分が変わるきっかけだけではなく、才能を見つけるきっかけにもなるのだろう。

まずは「当たり前」を認知しよう。
これは自分に言い聞かせている。

今の「当たり前」ではなく、今後の「当たり前」を作る大学生を育てるため、大学制度や諸々の構造は、今の「当たり前」が「当たり前」ではないことを認識し、脱却してほしいところである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?