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「教師の指導力」の暗黙知

こんにちは。久々にお酒をのんだら,ビール一缶で爆睡をかましてやりましたじゃこです。

今日は、僕が授業中に疑問を感じて、期末レポートにまとめたものからです。


最近というより、永年の課題なのでしょうけど、教師の指導力不足が騒がれたり,指導力があると他の先生方から認められたりと、やたらと「指導力」が問題視されます。

自分は指導力が足りないから、、、

あの人の授業は見た方がいいよ!指導力があるよ!

と「指導力」という言葉に迷い惑わされ、日々悩んでいるかと思います。

指導力という言葉、よくよく考えてみるとす~~んごい曖昧な言葉で、明確に定義されていないんです。

言葉では説明しようとするけど、何て説明したらいいのか。

教科指導のことなのか、生徒指導のことなのか、学級指導なのか、教育活動全般なのか。多様な「指導」がある中で、どのような力をもって指導力といえばいいんでしょうか。

指導とは、ある意図された方向に教え導くことです。

というのが、「指導」という言葉の意味だそうです。

酒井さんって方(昔のお偉い人)が、「指導」という用語に該当する英語が見当たらないことを指摘して、これが多種多様で広範にわたる活動領域をカバーする用語として用いられ、曖昧でありながら教師役割の中心的な有り様を示すマジックワードとなっていると言いました。


さらに!

文部科学省のHPを参考に調べましたが、指導力不足教員についての通知があるんです。

が!

この「指導力不足教員」という言葉!どういったものが指導力不足と言われているのか、説明がないんです。

もっと言うと、「指導力不足教員」という定義自体、存在していなくて(言い過ぎた)、存在していないというよりは各自治体の教育委員会によって、どういった教師が指導力不足と言われているのかが違うんです!

しかも具体的に「君にはこれこれの能力がないよ。全然足りない」という風にお達しはあるそうなのですが、その基準が曖昧すぎます!抽象的すぎる~


はい、で、(実践的)指導力とい言葉について議論することは、「暗黙知」という言葉、それに近似されます。

どういうことか、

暗黙知は「我々は語れる以上のことができる」というように「言語的に形式化されえないが,われわれが日常的に実行可能な諸事項を総括した概念」である。ある特定の場で活動する際の,多くは無意識のうちに獲得され,その活動を支える知識や技術が暗黙知ということになるが,語られること以上の何かを指しているわけであるから,「内実を探ると,観念的には統一性の乏しいもの」であり,「身体という概念と同様,多項目配列的」になるのである。
 当たり前のように使われてはいるが,それを明示化することには困難が付きまとうキーワード,それが「(実践的)指導力」だということができる。(レポート引用)

それについて語ろうとしても、語るには項目が多すぎて、素直にこれです!ということができない。だから、無意識的に納得するしかない、要は、だまらっしゃいということです。

指導力というは、どういう力があるのかと、説明しようにも教師が必要とされている指導力というのが多すぎるんです!


では、教師の指導力はこれだ!と規準を設けるとなるとどういうことが起きるか。

「実践的指導力の可視化や,規準・基準化が進むと,それは教師が所与の評価のラダーの中に位置づけられてしまう。(中略)さらに,規準が部外者によって作成されれば,それは「自律性」を失うことにもなるだろう。 」(由布佐和子さんの「実践的指導力」に関しての論文引用)

規準が設けられると、その規準の枠内に収まろうと自分の教師としての個性を殺して、指導にあたることになります。個性を出しまくったら、この規準の枠組みから外れてしまうので、自律性というのがなくなってしまうのではないだろうか。というわけです。


教師の指導力を評価しようとする論文もありましたが、評価項目が非常に多岐にわたり、校長・教頭が教師や初任者を評価する際には時間をかけて、このような評価方法を用いて指導力を評価できるでしょう。

ですが、

一回の授業をみて、この人は指導力がある・ないなどの評価は客観的にできず、自分の経験、理想を参考にしながら主観的に捉えることしかできないのです。


以上!

ではでは!

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