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雪の心象風景

年末にコンサートに誘ってもらった。

披露された曲はどれも聖歌のようで、祈りや宇宙の言葉にたっぷりと音楽が編み込まれていた。
ステージには満点の星空が映されていた。ピアノの前に座る彼の故郷の空だという。偶然にも私の故郷の空でもあった。

反響する音の余韻が残る帰り道、誘ってくれた彼は先ほどまで目の前にいたアーティストと青森出身のロックバンドの名を並べてつぶやいた。
「2組の音楽のテイストは全然違うんだけど、通じるところはある気がするんだよね」

この2組に限って言えば、表現は違えど、抽象的な詞と感傷的なメロディーという点で共通してると言えないこともない。しかし、もっと個人的な印象の部分で似ているものがあるかもなあと思った。
具体的には説明できないけれど彼の言うことは分かる気がすると思って答えた。
「心象風景が同じなんじゃないかな」

心象風景は心の中で思い浮かべる風景。その人の経験や想いをもとに精製された想像上の風景というものがあるのだろうと思ってその言葉を出した。

夏は都会ほど暑くなく、冬はかぶるほど雪が降るんだろう。少し足を伸ばせば山や渓流がある。デザートには林檎が出て、野菜は地物でまかなえる割合が高い。
たぶん、そういう感じで育ったんじゃないの。そういう風景を当たり前だと思って見てきたんじゃないの。そこまで言いかけたけど、私の経験を混じえても青森のイメージがありきたりすぎて言うのをやめた。


心象風景という言葉が出てきて、自分自身が持つ「風景の概念」について考えたことを思い出した。

それは冬場に東京から東北新幹線で帰省するとき、車窓から流れ行く景色を眺めていたときだ。東京、上野、大宮...と北上するに連れて建物の密度は低く、田畑の面積は大きくなっていく。また、トンネルに入る頻度が多くなってくると山深い東北に入り込んでいく感覚を抱く。

トンネルを抜けるたびに、屋根の上や道路の端などに残った雪が多くなっていき、宮城を抜ける頃には車窓の外のほとんどのものが雪をかぶることになる。
街とのコントラストが眩しかった局所的な白が、風景の地の色に入れ替わるのだ。


この地の色が白の風景、全てのものが雪をかぶっている景色にホッとする。
私にとって雪は広い面積を覆うもので、雪が降るイメージは毛布をかけるのと少し似ている。だから白の地の景色は懐かしく、かくあるべしと感じている景色のひとつなのだろう。わたしは、風景といえば雪景色だと思っている節が少しある。

こどもの時分に見た白い景色が多かったからなのだと思う。景色だと思っている情報の中の雪の量が圧倒的に多いのだ。

iPhone内の写真フォルダの機能で、1年ごとにその年に撮った写真を一覧できるようにすごく小さくしてぎゅっと並べられる表示があるが、それと似ていると思う。

一覧の写真は1枚1枚は、小さすぎてだいたいの色味しか判別できない。しかしこの色味の連続や変化で撮影のボリューム(何枚その場で写真を撮ったか)を一目で確認することができる。

生まれてから今までに見た景色を一面に並べることができたとしたら、きっと雪国で育った私たちは、白のボリュームがかなり多い。

海を見ながら育った人は青の数が多いのだろうし、たくさんの人と建物を行き交いながら育った人は人間の色や人間の作ったものの色が散りばめられているだろう。

私の故郷は冬の間は雪はほぼ積もっている。雪雲に覆われる灰色の日もそれなりにあるが、気持ちよくさっと晴れる日もある。雪解けはゆっくりだが3月にはちゃんと訪れる。(卒業式にめちゃめちゃ雪が降ったこともあるけど)

大雪や降雪のニュースを見ると、冬の景色の白の量は場所によって厚みも長さも違うのだろうと感じる。

この白のボリュームを自分と同じくらいもっている人を同郷と呼ぶんだろうな、と思った。


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