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タイガーリリーを思い出した

ののかさんのnote「五体満足なのに、不自由な身体」を読んで、ヘルタースケルターのタイガーリリーみたいだと思った。

岡崎京子先生のヘルタースケルターをご存知だろうか。美への執着と破滅についての、現代の寓話のような話である。
タイガーリリーはそもそも登場人物の名前ではない。作中で全身手術や薬などの大きなリスクを冒して美や賞賛に執着する主人公を「タイガーリリー」と呼ぶ場面があった。本来はピーターパンに出てくる部族の族長の娘の名前だが、果敢な女冒険者の意味で使っていたと思う。

そして、主人公ほどのリスクを冒さないにしても、アイドルのメイクを真似する、流行を追う、プチ整形を試みるなどの美を追い求めながら生きる女の子は「小さなタイガーリリー」であると結末でふれている。

ヘルタースケルターでの「タイガーリリー」は美と本来の自分の姿の間を冒険する概念の名前だった。わたしの「タイガーリリーみたいだ」という感想は果敢な冒険者の比喩であって、決して作中の主人公の破滅に向かう様子と照らし合わせたわけではないことをご理解いただきたい。

「五体満足なのに、不自由な身体」は自分の身体と心と「つながる」ということについての冒険だと感じた。
家庭や会社での言動から相手との関係性とセックスにいたるまで、これは大冒険だな、と思いながら読み進めた。

この冒険でのタイガーリリーがした試行錯誤は突飛なことだとは全然思っていない。(この公演の主人公のことを彼女の大冒険に敬意を表して、タイガーリリーと呼ばせてもらう)
そうだよなあ、好きじゃないのに好きって言ってみるよなあ、などと自分の体験と照らし合わせて頷きながら読んだ話だった。

相手が誰であれ、身体を使って「つながれるか試してみた」ことのある女の子って多いのではないだろうか。
私だって、いい感じの男の子とのデートの時ちょっと手に触れてみたり、この人はどんな風に慰めてくれるのだろうと思いながらベッドに入ったりしたことはそれなりにある。嬉しい反応が返ってきたり、失望したりと試行錯誤の結果はほんとにそれぞれなんだけど。触ることは言葉や表情のやりとりとは別の次元で、多くの情報をくれる。

この公演「五体満足なのに、不自由な身体」の最後にタイガーリリーは小さいけれど確かなものを手に入れている。冒険する中で知ったこと、それを知った上での自分の気持ち。身体。

ヘルタースケルターのタイガーリリーとは追い求めるものは違うけど、破滅しないとも言い切れない。試してみることはいつだって危険と隣り合わせだったりする。
きっといろいろ失うけど、やってみなきゃわからない世界なので仕方がないね。

いろいろやってみて、傷だらけになってわかったほんの少しのことを携えて、彼女の冒険も、わたしたちの冒険もまだまだ続く。

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