因果は意識を想起する

バカみたいに長すぎる記事、因果を伝えるのにこれだけの時間とこれだけの内容を必要とした事自体、少しため息すら出る。やはり人間とは難儀な生き物だと感じた。


因果とは何か?

『原因と結果』悪い行いは結果的に返ってくる、報いに応えるで『因果応報』、これは前世の領域も含めの話、不運さ、嫌な運命としてのニュアンスがある

因縁、はどちらかというと、宿命的な物や、いわれ、避けれぬものというニュアンスがある

カルマは業とも呼ばれ、よしわるしもなく、単に受け継がれていく物で因果も因縁も含んだ状態にあるもの。

ここで押さえておきたいこと

基本的に人は共通の時間の中で共通の宇宙を持ち、共通のルールのもと存在すると認識され、個人の意識は限られた条件を持ち、一つの人生に一つの個人の意識がポツンと存在するように理解されている。

注:ここからは完全に個人の見解であり、既存の認識、解釈、とは違う理由のため同じ言葉でも、領域がそもそも変わってくると思いますが、別に宗教的な言葉のニュアンスに意見してるわけではないので、気にしないでください。

まず、因果という言葉を私が使用するに当たり原因と結果という単純な、狭い意味で用いることはない

普遍的に永続的に存在する私という魂、これ自体がそもそも遥か昔からただ一つの目的を持って存在し続けている、その魂が古来から引き継いできた目的こそが、私という命の存在理由、私に意識が余儀なくされた理由でもある、その意識の深いところで感じる感覚に対し、私はよく願いという言葉を使っている。

だからこそその成就されない願いは、私という魂の鎖の中で阿鼻叫喚を得て踊りつづけている感覚がある。

つまり私のいう因果は、広い意味での原因、起因であって、そこに経過があり、それは魂が受け持った多くの人生であり、結果とは、願いの成就を意味する。あくまでも一つの人生に収まり切る様な身近にある因果では無い。

これが因果であり、全てには勿論意味が存在する、それは人間が考えうる様な意味ではなく、全ての物質全ての次元、全ての意識、形ある者、形なき者、全てのパラレルも含め一つの秩序的目的をもって存在した、高次と呼ばれる存在でも、その根幹にあるものの答えなど持ち合わせていない、あくまで私がこれを語るのは人類の脳は本来ならばそれを想定する可能性があると感じるからだから私は考える。

全てが存在した意味と、全ての方向性を、全ての存在の中にあるそれぞれの秩序とは大きな泡の様なもの、その中の気泡のそれぞれ達は、何かを抱き込み、それへの思念が強ければ、エントロピーは増大し、拡大していく、これは条理。そうなってくると、万物全てに因果が備わることになる、物も。言葉も。全てに。

全てに備わる、成就するかもわからぬ願いを求め人は彷徨い苦しみ、束の間の悦びに、すがりつく、私はこれを美しいと思う、そしてむなしさが全てに等しく眠っている事に気付く。

そしてその全ての因果こそが、むなしさであり、俗に言う空なのだと。

これが私(深淵に君臨?する私の根源)の考える因果の全貌であり、もはや宗教的な意味もなく、阿頼耶識とも呼ばれる領域よりも更に深くに存在し、とてもではないが、常人が理解し、説明などがされている因果はただの物理現象とも呼べるほど、簡易的な物、そう捉えざるを得ないのが、私に備わってしまった感覚であり、社会的には病的とも呼べる狂人としてしまっているのだろう。

間違いなく私の因果は今世でそれに気付き、悶え苦しみむなしさを享受することが目的だった。


因果からくる個人の特徴、特性

個人の感覚の特徴は過去世の影響を持つ、それは遥か昔から存在し、この先も存在していき、たまたま今の人生でこの身とこの体がそれを担当しただけでありその続いてるものを魂だと言いたい。

人の趣味思考がなぜ違うのか、何故そもそも好みがあるのか、全ては心の中にある因果によるジレンマが趣味を引き起こす、裏を返せば、何故それが好きなのか、それを突き詰めれば魂が求める叫びを理解することとなる。

何故それが好きなのか、それを求めている時、心は何から逃げることができるのか、はたまた何を求めているのか、全ての理由がそこにはある、これは確実だと思う。

想い方の特徴もその魂が引き起こしやすい想い方の傾向がそれぞれにある、確実にそれは個人の瞬間的な人生の中に存在する心を蝕む特性を持ち、それはごく当たり前のことであり、それには必要性と、目的があり、別段、良縁も悪縁も善因も悪因も無く、おこるべくして、さも当然のように迎えるものだと思う、もはや因果など当たり前で、それ程に原因と結果は当たり前で、苦しみも悦びも感情が得るもの、生まれた環境、出会った人、苛まれる想い、望んだ事、逃げたいと思う事、感じる怒り、それらはそれらを感じるためにだけ、全ての事象は存在し、それの意味は本来求める魂の叫びに気付くため、その為にしか、存在の理由など見当りもしない。君が今何を想うのか、それは想うべくして想い、苛まれるべくして苛まれている。その本当の理由は、苛まれてもなお、本質的な個人の望みや願いを選び取る力を手にする為のもの。

それ程に、人の存在の理由は深い所にあり、苦しむ為、怒れる為、逃げる為、悲しむ為、になど、本来はただの一つも存在などしない、これが私の結論で、過去世の行いが悪かったから、今世ではなど正直言って、認識と見解があまりにも稚拙だと私の中の何かが言っている。

意識は個人の感覚を越えて拡大化する

生物は他者との関わりの中で、様々な感情を持つように、感じるように作られている。

人間というものには意識が存在する、例えばこれに表現を変えて命というものにはとしたとする、更に変えて万物にはとしたとする、一般的な感覚ではこの階層の変化は次第に説得力が薄れ、曖昧さや、理解し難さが増していく。

意識を定義づける物は何か、答えれる人などいるのだろうか、果たして意識は本当に我が物なのか、大麻などの薬物もそうだが、よし悪しがある、その時の個人の心の状態を増幅するような物

不安な状態でやると、恐怖やら何やらで、意識だけが肥大化し、体を離れていく感覚になり、時間という感覚もどこか遅くなる。不安は拡大し、精神は異常な悪い方向へと落ちていく。

一方、リラックスした状態でやるとやたらとポジティブになる、心の状態は強い感受性を持ち、感動的になる。

別に薬物の話をしたいわけでは無いのだか、要は何らかの作用を持つ物質が取り込まれるだけで、通常とは違う意識の段階にまで発展していくことを体や脳は記憶していると言う事を言いたい。

これは脳が判断する範疇外の、独立的に発展、または増幅してしまう意識の持つ特徴というものがそもそもあるのでは無いのかと思う。

自己体験の話ではあるが、呆れるほど脳はしっかりしていた、ただ完全に別のものがそこにはあった。

自己が認識する世界とは一線を画す領域は確実に存在しらその領域に足を踏み入れれば意識は確実に拡大し、それまでとは違った幅を持った、別に変な麻薬に手を出したわけでは無い、れっきとしたシャーマン達が扱った物を昔一度してみただけ、依存もないがそこには明確な意識の世界が存在し、現意識を超え広域化した意識の感覚を感じたのは間違いがなかった。

脳波が捉える意識、感覚について

自らの現意識もそうであるが、人の言う意識とはあまりに具体的で限定的なものであり、その他の生物に意識が介在するのかすら一方的な判断を余儀なくされる、これは意識そのものに対する認識に狭さがそうさせる。

意識のそれには形はなく、現象学的な保証されるものは何一つとしてありはしない。

しかし人は確実にその姿なき意識を持つ、脳がこれを作るとされてはいる。

果たして意識は本当に脳の生み出した限定的な産物なのか?


臓器移植で記憶を受け継いだり、過去世の記憶を持っていたり、脳とは全く切り離された次元における事柄などもある、その全てが狂言というにはあまりにも結論が早いかに思う。

たとえばその臓器移植の例にしても、当の本人は死んでいるのに、移植された側に思考性が移るというのは、魂と紐付けされた強い思念が細胞自体に記憶として定着し、その好みや記憶に関する情報を補完したとも言える。

そもそも単純に不思議なのは、血液の循環が止まる事で、生体反応が終わりを迎え、意識が現実的には確認できなくなるというとこにある。

血液は細胞を駆動し、脳に様々な物質を供給し、脳波を作り出す。

脳波は実に興味深い

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眠っている時と起きている時の意識の差に大きな違いがある、これは誰しもが経験したことがあると思うが、夢などで現れる設定が現実世界では到底あり得ない設定であっても、夢の中では何故かそれを馬鹿みたいに鵜呑みにすることがある。

夢だからねで済ませてしまいがちだが、やはりこれは不思議な状態だ、

言い換えるなら起きている状態の脳波ベータ波以上では認識し、受け入れれる範囲に限りがあり、なんらかのフィルターが掛かっているようにも思う。

一方シータ波以下は意識的にニュートラルの状態で、ありのままを受け入れる状態にある。

これは経験的なものだからなんとも言えないが分かる人には分かるのだろうと思う、寝起きのまどろんだ状態には不思議と通常なら思い付かない発想をすることがあり、また本来ならまだ知らないはずの現実的な情報とリンクし、その情報を得ることがある。

つまりはシータ波の状態というのは、その人にとって必要な現実的な情報を獲得することができ、またそれを意識的に、一時的に記憶することができる。

これが一時的という理由は、そちら側で得た情報はシータ波波で得た情報であり、アルファー波では記憶が剥がれ落ちだす傾向を何度となく体験した。

ベータ波に入って仕舞えばこれは完全に忘れてしまう。

ようは顕在的な領域には持って来れない情報というものが存在するのは間違いない。

このシータ波は本当に不思議なもので、現に天才と呼ばれる科学者達や、作曲家などもそんな状態の時に何かを閃いたりする。

ごちゃごちゃ言って済まないが、少しまとめるなら人の意識というものは顕在意識とも呼ばれる意識の周波数帯では知覚しずらい領域があるのは、個人的にも痛感している。その意識の領域はごく個人ではなく、cloud的な機能を持つ領域が存在し、それは共有すべき存在となら共有可能だという事、魂的に繋がりを持つ人と言っても過言ではない、それ程に特定の関係性において、特定の繋がりがある話は多く存在しているのが現状だ。

心理学においてもユングはその領域を集合無意識としている、細かい内容は忘れたが、聖書を知らない被験者が、旧約聖書の中にある特殊な言い回しを連呼したという話がある、それを元に集合無意識の存在を示唆したらしい、他にもエドガーケーシーは医療の知識がないにも関わらず、入眠時に、患者の治療法を口にし、多くの患者を救ったという話も有名で、他にも夢で会った人と偶然会ったかと思えば、相手も同じ夢を見ていて覚えていて、どうもその節はという具合に声をかけられたり、そういう話もある。

心理学においてはフロイト、ユング、アドラーなどがあるが、彼らの意識論争はそれぞれの主張はそれぞれに正しいのだと思う、これはそれぞれの意識の次元の話で別れていて、あくまでもアドラーのいうそれは顕在的作用の中での話、あの時あーなったから、こーなったから、フロイトは更にそれに無意識の領域の影響を視野に入れたもの、何であの時あーなった?その瞬間私は何を感じていた?それがフロイト、ユングに至っては、何でそれを私は選択した?何がそうさせた?それを選択した理由は?とかなり掘り下げて分析してある、その意識のどれもがそもそも人の中には同時に存在している、そしてユングはその意識の領域をcloud上と繋がりを持たせて根拠を作り上げたものであり、それは意識が他者の意識に接点がある事を物語っていた。

聞いた話だが、ある人が家の中にいるときに付けるな!という声が聞こえたという、

詳細は、電気配線に異常が見られ、それを知った管理者が各家を回ってガスをつけるなと言って回っていたそうだ、そしてその家へと内心連呼しながら向かったという、強い意識や想いはテレパシーの様に他者の意識に介入することができるものだと思う。

それに比べて見れば人の脳が捉える意識なんてものはあくまでもたかがしれている、

ガイア理論もそうだが、あれは確実に天体含め、エネルギー含め、細胞含め、素粒子レベルまでをも含み、全ての存在に意識が存在することを示唆しているのだと思う、仏教の中では植物には精神が存在しないとされてはいるが、それは違うと思う、周波数的なルール上の問題であり、とある宇宙には、過度にネガティブな星があり、そこでは植物らが動き、精神を保つらしい、ようは精神を関せざるを得ない存在は、魂の次元を上げる必要性を持ち、因果という檻に入れられ精神を与えられる事となる。

意識や精神は様々な人生を経て多くの学びを得ていく、釈迦ですら、過度にネガティブな精神を持った存在だった過去世を持つという、それだけの学びを得てあの域に達したとするなら、それは何とも不思議な話だ。

まぁこの話は賛否両論あるだろうが、自分的には甚だしく、信憑性のある話だったし、納得のいく内容だった。

話が飛んでる様にも思うだろうが、これは意識の話であり、通常の意識では恐らくこんな話すらまともにはうてあってはくれないだろう。

あくまでも言いたいのは、意識とは固定的なものではなく全体を統べている何かであり、全体を統べると言う事は、その領域までをも範疇に入れなくては把握出来なくなってしまうのだと思う。

だいぶ飛んだ話にはなってるかとは思うが、捉えようとする領域は際限なく広げれるとも思う、まぁくだらない常識にとらわれなければなのだろうが、変人扱いされれば生きづらくなるのは当然で、仕方ないところもある。

まぁそれ程に我々が認識している範囲はあまりにも狭いのだと思います。

人が認識している周波数帯とは?

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そもそも目には見えない線とよばれる周波数の異なる光子(素粒子)エネルギーとしての電磁波がありそれを人は光と呼んでいる、正確にはそのうちの可視化可能な範囲をそう呼ぶ。

何故、可視化可能なラインとそうでないラインが発生するかは単純にレンズをイメージすればいい人間の調整可能な焦点を合わせるレンズの機能がその界隈というだけの話で、別に見えるもの以外が存在しないわけではないということが当たり前に理解できる。

その中でも可視化可能な範囲を光と言っている、光というものにはスペクトルがある、かく周波数帯には色がある、が、実は光はこの色に限られているわけでは無い、まぁ正確には網膜がそれを受け取り人間の網膜にある視細胞が反応し、色をあてがっているだけなので、可視化できない範囲は色付けすることも肉眼ではできないから、そういう機器が存在するわけで。

光を感知する視細胞には桿体細胞と、錐体細胞があるこれらはオプシンと呼ばれるタンパク質からなる

桿体の感度は高く、光子一個にも反応すると言う、夜などの夜空を見上げる時の細胞だ。

錐体は逆に感度はそこまで高く無い、昼など明るい時間に使用される。

これらの細胞が、光を確認するのだが、網膜レンズを通過して屈折した時に、可視機能な範囲の光の周波数帯のみが目に色として識別される。

物質があったとして、そこに色は事実上存在しない、正確には確認できない。

まず物質に光が当たる。

その時物質事に吸収される周波数帯と反射される周波数帯がある

その反射された周波数帯で可視化可能な領域を人間は色として知覚する。

ものが違って見えるのは単純に反射した色(周波数帯)の違いなのだが、実際生活してみると、この感覚自体がそもそも損なわれる、これも含め意識といえる。


フラウンホーファー線からわかる宇宙の成り立ちと素粒子の振る舞い

意識の話にここまで壮大な話が必要かとも思うだろうが、強く関わりを持つものだと思う。

宇宙の成り立ちを少し垣間見れる話

光の持つスペクトルとは実際には情報の履歴の様なもの、どう言うことかと言うと太陽のスペクトルを調べる際、分光器で更に周波数帯毎に細分化した時に黒線が現れる、それをフラウンホーファー線という、この黒線が意味する物は、その光源で反応のあった、原子の存在

原子は初めから全てが備わっていたわけでは無い。

全ての始まりの際、一つの原子が作られ、膨大な核反応により爆発を起こす、その際新たな原子が生み出される、それを繰り返し原子の種類は増えていった。

それと同時に徐々に分子も構成されていく、やがては物質というものが作り出される、その間も並列して原子は次々と生み出されていくわけだが、

興味深いのはこの先

光を放ちやがて爆発を引き起こす役割を担うのが、恒星だが、この恒星も生まれた順に数多く存在する

それぞれの恒星毎に異なるフラウンホーファー線を持つ、これの数を調べる事で生まれた原子の順番がわかる。

その際最後に生まれた原子こそが酸素だった、

これを知った瞬間、鳥肌がたった。

人間はやっと作り出されたのだと、全ての過程に偶発的に存在したのではなく、存在するべくして、目的を持ち作られたのだと、人類は科学により更なる原子を作り出すが、自然はそれ以上を必要としなかったのか、更なる発見があるのか、新たな原子が生まれ、新たな生命が生み出されるのか判らないが、現時点では我々は何かを託されたと言っても過言では無い。

それ程に意識を介在する我々にはそのなにかしらの言われがあると思う、意識を壮大な規模で捉えてもなんら差し障りがないかに思う。

実際に人類と光はそれだけの所以を持ち、それを知覚するための機能を持つ我々は、科学により様々なことを理解していった。

周波数とは何かを知る手掛かりなのだ

今何を知ろうとしているのか

数ある周波数帯から何かを選び取り認識するシステム、

この構造上のメカニズムと同様のものがある。

それが素粒子達の振る舞いそのものである。

素粒子はまるで人の心の様に

彼らは崩壊を繰り返し、何かを生み出し、安定を求めていく、全てに抵抗という名の質量を与え、強い力で結びつけ、またそれが崩壊の際には永続的に残り続ける弱い力を介在させた、電子は多くの機能を持つ、そしてその存在が触れるということを可能にした。そして全ての素粒子達は振動というエネルギーをベースに絡み合っていく。

なんとも人間的だと痛感する。

人の心そのものがまるで素粒子達の振る舞いそのものの様でもある。

では何が構造的に同じなのか、素粒子の中でも一番馴染みのある、最も研究が進んでいるものといえば電子。

電子も勿論周波数を持っている、そして軌道と呼ばれる原子核の周りの電子の通り道がある。

その周波数が整数回往復するとちょうど一周するわけだが、この周波数に変化をもたらすと電子はその軌道を進めなくなる、丁度周波数が一周する軌道まで電子は外殻へと移る。

よく用いられる物は光子、光子とは光の光源の素粒子

簡単に言うと、光を当てると電子はそのエネルギーを吸収し軌道を変える、しかし安定する軌道では無いためこれは一時的で、また戻っていく、この時全く同じエネルギーをコピーして放出する。

うーん、難しい、どう表現していいか!

簡単に?言うならば?エネルギー順位が落ちる時、急激な力がかかるこれは、磁石などの磁界の中心にかかるエネルギーの急激な強さもこれと同じ原理であり、不思議な事にこの強く落ちていく力を光を当てる事で電子は外角へと簡単に逃れることができるのがそもそも面白い!

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若干投げやりな表現をしてすまないのだが、

僕はこの画像を見て、磁石と、引き合う力と、脱することができるメカニズムは唐突な変容であることと、しかしこれが心身の状態の癖がありまた戻ると言ったような、人の心の動きと電子と磁界という名の重力にも似た因果の力の空間が物理的に、構造的に見えて来る、これを表現するために3日を要したが、僕には無理だった!

これを共有することはできないのだなと感じた、こりゃむずいはなと言った話で。

まぁそんなこんなで分かる人には分かるであろう、因果と長い宇宙の成り立ちと、電子のその振る舞いや性質は、まるで因果に飲まれる心を表すようで、

電子自体が因果の持つ、心が陥りやすいメカニズムを物理的に行なっている性質を持つ(多分これ事実と思う、全ての電子の特徴はそれでしかない)

だからあなた方の因果的心理作用は、実は物理的と言っても過言ではないし、もっと広い、長い意味で物事を捉えるだけで、人の心はそこから脱する手段を手に出来るシステムがそもそも電気的に備わっているのだろうなと思った。

認識出来ないは、不可思議、やがて科学が証明される事で初めて認知される、これ自体が愚かさとも…

その範囲外の存在はその昔、不可思議のジャンルで押さえ込まれていた。

化学は発達し、様々な存在を確認していった、

少し前まであり得ないと感じていた事象すら科学が立証するならば、常識として取り込んできたのが人類だ。

ならば現時点でのあり得ないという事が一体どれだけの保証を持つものなのか。

地球はその昔、平らだった、全ての天体は地球の周りを回っていた、地球は太陽の引力によって回っていた、国という幅も、昔は、もっと狭い意味を持っていた。

信仰を持ち、神を当たり前の存在としてきた。

しかし、全ては覆されていった、科学の発達と共に当たり前は移り変わり、神すら疑うものともなってきた。

宗教と哲学は、始まりは同じところから始まり、神の争点により、思想により分岐していった。

神と化学は同じところから生まれ、知性と共に分岐し、今、その物理現象すら無視する領域に、やっとたどり着いた。

それこそが量子力学だった。

それは通念であった事象の更に小さな単位の学問、

目に見えないが確実に存在する学問は、

今や人の意識の領域に手をかけようとしているかに思う。

随分と昔に終わりを告げた学問

学問とは問い学ぶ事、いつしか、学問から問いかける事など失われてきたのが現実だ。

通念に対し問いかけるもの達を、半ば小馬鹿にし、足蹴にし、分かりきったことの受け売りしかできぬ、物達が扱ったばかりに、知性はストップしたとも言える。

意識は人の許容範囲を遥かに超える範囲で存在している。過去のそういう人らが賢いのは求めたからであり、現代人の教える人が畏いのは、記憶しただけだからであり。

意識という言葉が色褪せるほどの、エネルギーのうねり、それは因果律と共にあって、それぞれの世界と、感覚と、狭っ苦しい認識ではとても許容出来ないであろうその壮大な何かは、それぞれの内部に確実に例外なく存在する。

魂が与えた人生を生きざるを得ず?

因果は感情を描き出す。

そのいずれの感情の深いところには感情の層が眠っている。

主観的感情、俯瞰的感情

その因果律と共にある、むなしさ。

抗う事を困難とし、その魂は陥りやすい傾向を脈々と、続けているに過ぎない。

魂にも段階は存在する。

神性を感じる者、そうでない者、履き違える者、

それは全て魂の段階により意識と紐付けされている、気が触れているわけではない、なにぶん現実的な事が賢いわけではない、その領域にある魂はその領域の苦悩とともにあるべくして存在してしまう。

スピにはスピの問題、非スピには、非スピの問題、頭いい人こそ、バカに見えて、知らずに心のままに生きれる人が賢くも見える。

不思議な世界だとつくづく思う、ユーは何しに?と一人一人問いただしたくなる、今日この頃だが、捕まるのでやめておこうかと思う。別に冗談では無い。

悟ったり、何かの力を感じたり、何かが分かったり、何らかのイメージというものが強い人達は、魂が単にその段階にあるというだけで、別に聖者でも愚者でも無い、

ただ当たり前に腹が減ったら食べる様に、眠くなったら眠る様に、その魂ではそれがごく当たり前で、正しく満たす事で健全な肉体となる様に、その者にとって健全というごく当たり前な魂となっていく。

選択というものもただすればいいわけでは無い、

この自発的選択にも魂的な視点から見れば良い選択と悪い選択とが存在する。

簡単な表現をするなら、願いによる選択と、畏れによる選択などがある。

怒り、憤りなども含め結論からすればそれは全て畏れに他ならない。

畏れからなる選択を賢さと誤判断すれば、それは魂にとっては不可となる、因果を振り解く選択とは違う、それは傾向として残り、同じ過ちを人は必ず繰り返す。

全てその因果の眠りにより、人は何かにぶち当たる

ようは全ての事象、全ての関係、つまりは万物には須く、因果=むなしさが存在する。

今更だがむなしさは二種類の字がある。

情景的に俯瞰した視点で捉える(私の捉える)空さ。

そのむなしさに苛まれる現実的な(俺が捉える)心の形態がある、その歪む心を虚しさと言う。

苛まれる心には醜さがある、現に虚しさに苛まれる俺には醜さも感じるが

空さを感じる私からすれば苛まれる心含め美しさを覚える。

現に主観的に見た負の感情には、当の本人からしてみれば、美しさや、愛しさを感じる余裕など全く無く、これらは完全に排除される。

しかし、私の視点を昔から飼っていたものからすれば、苛まれる自分にすら、美しさや、切なさや、純粋さを感じる事ができる。

そういう意味でも意識は個人のものではなく、やはりある程度の広がりを持ってくる。

因果や魂は強制力を持たない、解放するきっかけと運命とも呼べる何かが必ず人生には存在する、賢ければ気付き、畏しこければ蔑ろにするだけだ。

まとめるならば

蔓延し広がる意識の中に、精神と呼ばれる個人が捉えるごく個人的意識とも呼べる設定が漠然と存在する。

そこに想いや願いを兼ね備えた心が住み着く世界がある。

そして更にその中には振る舞いをコロコロと変える感情という様々な粒子達が生活をしている。

こうして人はより実感的に何かを感じ、またそれが心の中を席巻し、あたかもそうであるかの様に感じてしまう。

潜在が見えづらいのはそのためで。

では何故この心にはその人個人特有の感じ方が存在するのか。

それも含めその個別の魂が迎える因果の形であり、

それを与えられ生まれてくる。

では何がそれを与えたのか、

神などでは無い。

宇宙がその様に物事を作り上げた、

星が個別に魂の摂理に従い世界と環境と関係をもたらした

個人の心の持つ設定は人間個人に設定された網膜のレンズのようなもの
因果という光の中にある沢山の周波数から、ある周波数帯の感情を抽出するため。
人間はその個人特有のレンズを用いて、様々な感情からある傾向の感情を選びやすくする傾向を持つ。

そのレンズの設定こそが、輪廻として与えられる、
宗教家たちはそれをカルマや、業として表現し、
占星術においては星が与えるエネルギーだったりする。
宗教家たちは神を結局のところは認識出来なかった、占星術家達は、そこまで占星術を落とし込めてはいない、そんな中でも心理占星術というジャンルがある。
この起因はユングが関係した、
彼の扱った考え方に、元型というのがある、ここでいうレンズの形がおそらくそうなんだと思う
因果という光から可視化できるその人特有のレンズ

全てに言える事には共通するものがある、
二重スリット実験も、観察した事でその人の周波数を受けて、振る舞いを制限されて波の動きを取れなくなり、粒子の動きに固定される。
見える世界も、視点を合わせれば明確に、その周りはボヤけるのは、波か粒子かの違い、観測した事で振る舞いを変えたのではなく、観測した事で固定化した、振る舞いを変えざるを得なかったというのが実際の所

レーザー光も、光というもの自体を筒の中で増幅し、一種の光の周波数のみが、レンズに対し垂直に飛び出た物だけが排出される様に出来てるから、遠くまで届く。

全部同じことを言ってる、量子力学も占星術も、電子工学も、心理学も、精神分析も、宗教も、
全部人間が意識の中に持つレンズが見た幻影

幻影と表現したのには意味がある、これらは全て、全体の中に存在するごく一部の事実でしかない、それらは全て絡み付いて一つの事実が紡ぎ出せる、その可能性を淘汰したならばそれはそれぞれが見た個別の幻影でしかない。

一人一人の人生の中には、様々な出会いと別れと繋がりがある、魂は分離し時には強い関係性を持つ事がある、人の感覚では理解し難いのかも知れないが、生物学的に見ても、科学的に見ても、万物はその構造を持つ、だからこそ同じ性質から生まれているのであるなら、これは当然と言っても過言では無い。

魂が繋がりを持つならば運命とは一体何なのだろう、もはやそんな言葉すらどうでもいいほどに人はそれぞれのタイミングで出会い、何かを感じ、何かに溺れ、何かを求め、何かを恐れ、何かに疲れ、何かに怒り、何かを蔑ろにし、何かに苦しんでいく。

様々な境遇の人生がある、受け入れられざる感覚、苛まれる人生、人と違う体、人と違う経験、理解されぬ個人の意識と感覚は、当たり前を振りかざすもの達により平然と傷つけられていく。

全ての人生にたらればは存在しない、今君が何を思おうと、何を後悔しようとも、全ては必然的に起こるべくして起こった事、それが何を意味するのかは、当たり前の意識ではわからない、グルグルと同じ道を辿るだけ、それはその様に感じる様にそれぞれのレンズが設定されているから、逃れようの無いその境遇はあなた方が根幹を知るためにしか準備されていない物事、苦しみの為に、怒りのために、恐れのためになど誰も存在しない。

あなたが何故その人生となったのかをもっと、あなたは良く知るべきだ。


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