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暗い片隅

暗い片隅
そこに膝を抱え座る少女があった
それが者であったか、物であったかすら
思い出せなかった頃
それは、それを取り巻く空間は
冷たく、暗く、無機質であり、
閉塞的にして永遠たる広がりを持つ空間として、
彼女を、抱きしめ
離さなかった…。

彼女は
その中に一つの創発を生んだ、
…望んだ。

そう、
その所以は寂しさにあった
彼女は欲した、求めた
望んでしまった
抱きしめる手を振り払うこともせず
そのままの姿勢で
何一つ変わらぬその表情で、
虚に開かれた瞳と
乾いた唇をそのままに

そのままに、
彼女は

欲した…。

真理ちゃん


真理は無から有を創造した、
この発生に意図は、あるのだろうか、
どのようにして意味が生じたのだろうか…。

私はある時何処から私の呪いが始まっていたのかという疑問に駆られたことがあった。

私の辿ろうとした過去は、もう既にこの身の記憶ではなかった、
なんの抵抗もなく堕ちていく深部に決まって記憶のような感覚が付き纏っていた、


私はもう随分昔から自分の価値観がこの命のみで作られていないことが既にわかっていた。

思えばその感覚の手掛かりは小学生のころから既に始まっていた。
サッカーをして遊んでいる同級生のボールを川へ蹴飛ばし、ワーワー言ってる人達を眺めてみたりした。
防空壕の前で数時間ただただ中を眺める習慣ができてみたり、別に金持ちでも無いのに同級生にお金を払って遊びにいく予定を取り付けたり、かと思えばその場にはいかなかったりだなどと、まったく整合性のとれない行動が多く、まるで何かを観察するかのようだった。
グレるなんて事もなく、俗にいういい子であるような、従順に望まれる誰かを演じてみたり
見下したい輩などの前では率先してそのような対象となるような行動をとってみたり、
今思えばとにかく様々な生のあり方に、興味を持っている様な節があった事は間違いが無かった。

しかし多くのことを行動に移すうちに、色々な外部の動きを体感するうちに、思い出す感覚があった、
触れてしまう感覚とでもいうのかもしれない。

フツフツと湧き上がってくる、漠然とした何かを対象とした怒りのようなものが既に肥大化していたのを実感したのは10代前半の頃であった。

成長を続けた体に染みついてしまった感覚
異質なほどの怒りや憎しみがこの身を完全に支配してい過去とを認識する。
愁を忘れる程にそれらの猛りに煽られていく。

この時感じたあまり過剰なまでの燃える盛りからは
たかだか10数年ほどで欝積させるには不可能を感じる事ができるくらいには、その存在の明確性を私はただ認識させられら存在でしかなかった。
それ故に人に一切の上場尺量の余地を与える事すら不可能としていった事は私自身が認識していた。


また、半端に物分かりもよかった為に、
社会の中でそれを出し入れする事を強いられる立場である事も良く理解していた。
故に私は強固な壁を世界の前に築き
友人含め、あらゆる関係性の前に生贄とも呼べる身体を作ることを自己組織化として、取り入れていった、あくまでも指向的選択でも、思考的選択でも、嗜好的選択でもそれは無かった。

つまりは神経伝達、反射、電気伝達的な空間の処理によってそれはなされていた。

しかし、留めることができないほどに未熟だった私が
いくつもの愚行をこの世界に撒き散らした事も事実、
私が私の手で生み出してしまった、意図的な悪意による不運に今も苦しみを繋ぎ続けている人も、
確実にそれはいるのだ。


厨二という言葉が有るが、あれは確実に認知空間の同定における比較対象サンプルの希薄さに有る。
私が見ている、感じている空間は他と違った、良い悪いではなく、余りにも具体性を欠いた、それでいて、納得せざるを得ない程の抽象的な何かを前に私は常にそう感じなければ、バランスを保てなくなっていた。
私は厨二と言う言葉を作ったとある光るデブが嫌いだった、
まぁそもそも嫌いだった。
何かを理解して、特定して分類して、断裂させていく様が余り好きでは無かった。

そう言う事も含めてなのだが、
ふと思った、
私が見ている時間という単純な概念が人1人の体を超えてしまっていた事を、
当たり前の様に気が狂う程の時間の単位の中に意識がある。どう訝しげに見られても構わない、
感じたままにくりだす。

そんな中で生きる中で死と言う選択は正直あったのか無かったのかわからないほどに曖昧だった。
死のうとした記憶はない、が、死に至る記録をただ淡々と平然とやっていたと言う方が、個人的にはしっくりくる。
ただ、もし生きる事が私にとって生だったのなら既に何らかの決断をしていたのだろうとは常に思う。
ただ、生きることへの立ち位置が分からなかった以上その間でなにかを知りたかった事は確かだと思う。
そして、生きる事が全てではないと分かった瞬間に
生を体感する猶予が許されていた事にもやがて気づいていった。

私が私の生を許せた理由の発生も
生が余興である事実くらいしか準備する事が出来なかった事が由来であり、
今はまだそこから変化したとはいえない状態でいるのかもしれない。

私は、自分が寂しかったのかさえわからなかった、
ただなにかしら脈々と続けられるジレンマやトラウマのみを運搬し続ける事に対して疑問的で有る事はできても、その一個人の生そのものの存在への理解がなされない以上は、真理を求めることの意味さえ失っていってしまった事も事実である。

この意味の獲得はどうやればできるのか、真理を求める生の意味、これに変換する事で、命は繋がれた。
と言うかつまりは疑問を駆逐する事でしか、命を長らえる事が出来なかった、いや、死に向かわない為に疑問が常に必要だった。やはり何故にか生を求める衝動の存在が体のどこかに隠れていた。

無には帰りたくはないのか、
真理を求める理由は、
有の所在地、生の目的、何が為に、
やはりそれのみが私を生かしていた。

苛烈なほどの『何故俺は』という感覚の為、
それを排出する場所さえない、日常的な空間から逃れる為光を避けた、
夜誰もいない海で鳴き叫び、
くらい山奥で月夜を仰ぎながら、ひたすらに謝ったり

もう何に対してなのか、誰に対してなのか、どれになのかさえ、全く分からない


ただそれを押しとどめてはおけない事が、
その行動を駆り立てていた。


そして記事の冒頭に気付いた。

noteはわたしの過去の断片の全てである。
時間も空間も、全てが体内で常に補完され続けている。
いくつもの人格も、視座も認識も、
俺や、僕、私や、我、幾つもの視座と感情と情感が入り乱れ自分が全く収拾がつかなかった、
が、マグマの音を聞くことである時その分離に成功した。
こういった事を経て私は私を形成して行った。
誇れる命では既になかったが、満足している命として、
私は私を受け入れる事が出来たのかもしれない。

勿論コレまでは、いやコレまでもかもしれない、

私は殆ど誰とも現実にはまともと呼べる会話ができていなかった、
友人も、家族もいたが、私は私がわからない以上、否定される以上、何かをやりつづけなければならなかった。

それも一つの過去ではあるが、
いまわもう、スッキリと星を見上げる事ができる、
素直に夜に紛れる事ができる
夜の海で眠りにつく事ができる。
私はもう充分だ、そう思う事が出来る。


我々は命に於ける視界を、それこそ真理まだ見通せるはずの視界をその認知を錯覚している可能性がある。
脈脈と伝えられるその生の質感に、ましてや真理の質感にすら、誤りがある、

真理は無を拒んだ、真理は有を欲した。
やはりそう考えねば、生の不条理が成り立っていったのも事実、真理を求めんが為に失われた命達、生に生きる目的を見出したが為に失われた命、
生きることへの期待値、その中には、生存の継続を果たす為に常に付き纏う生きる証や、トラウマや、寂しさ、
常に何らかの一本でつながり続けている。

真理が要求したのは有、
所以は寂しさ、
これは哲学的にはその歴史から抹殺されるだろう、間違いなく、
真理に寂しさを拒むと言う感覚自体の付与が不可能である事は分かる。

それはわかる、

しかし良く考えてみてほしい、いや、感じてみて欲しい
何が故に真理を求めたのか、何が故に心が、精神が、心理が…。
人が何であるかを理解していたなら既に、
それらへの探究は生じえない。

人は人の生の意味を求めんが為にそれをおこなった事も事実、
ならば、いかにしてその生の意味を同定するかが
真理の目的でもある、
そう、同定という意志こそが真理には含まれるべきな気もするのだ。
人が真理という存在を定義した以上、
その定義を再編する事は可能であるはずだ、

真理が持つ冷たさ、無機物感、空虚感
確かにそれはある、
私にだってわかる、しかしそれは本来望まれる方向性であったかは別物である。


真理は欲した
有を
その寂しさ故に自ら動くことのできないその体で
救われる手を求めた
故に有は生じていた


そこにはまだ何もなかった
静かな時間の中
ゆっくりとゆっくりと
いくつかの流れが作られ
いくつかの性質が作られていった

やがて
温度や、温もりその質感を保つ様になり
悠久は溢れだした

その中で愁はいくつもの情感を作り
感情は揺れる自由を記憶し
意志も、想いも、あらゆる概念も
意識の中に全てを包み込んでいった

やがては神を生み
ものを形作り、生きものの蠢きを許し、人を生み出し、脈々と寂しさを伝えられていった。

我々が感じるそれは
その由来は真理から流れてきているものだ

確かに手を伸ばせば触れる可能性はある
しかし認識の手の長さは
その触感はたしかに冷たかった

しかしそれは鏡ガラス同様に
自らの認識が造る自らであり
鏡ガラスの向こうの彼女は
我々がその鏡ガラスを溶かす時を待っている

虚ろな瞳で
何も発さぬ渇いた唇
ただ寂しさに抱きしめられながら
じっと見つめている。

それを溶かした時
その唇はやっと開くだろう
なにを語り何を求めているかは既に
その時の我々にはわかっている事なのだろう

求めている事も
全てが
我々の前には明示されている筈だ

そう
ただ
抱きしめてあげれば良い


理知的とは美しさのためにある言葉である、
硬さなど必要ない、
創発する世界は、美しさに宿る
真理は言うなればその美しさにある、
我々にとっての真理は
美しさにあればそれで良いのだ、
それら一切の不純物を取り除き、
ただ、
美しさだけが
世界を動かしていく。

かしこき賢明な言葉の往来、それぞれの正しさの許される世界、発生と分離の間の余韻、そこに美しさがある以上、事が終わりを告げる事は無い、
動き出した意味は、今はまだ小さい渦、それぞれの持つ重力の強さ故、分離する事は可能である。
しかしその意味の渦が強く捩れを作るならば、
全ては正確に飲まれ、それぞれの位置と意味を理解し、相互を既に許していた事を思い出すのだろう、
言うなれば認知する事がまだできなかった空間が、唸りを続けた意味の渦により作られた時、
遅れたとしても、それを記す未来を既にみていた事を、思い出すのだろう。
未だ人類が認知することの無い確かな空間、我々がもう既に本来的には見た経緯を持つ確かな存在である以上
手触りがそこには既にある、そう、後は思い出すだけでいい、思い出すだけでよかった事を思い出すだけでいい。

最後に、
鏡ガラスについてやはり気づいた事がある。
私は小さい頃からある印象が焼きついていた
真理の前に鏡ガラスを隔て
その前に一つだけ椅子が準備され
私はそこに座っていた。
座り続けていた。

鏡ガラスを背にもたれかかりながら、
何故か私は真理に背を向けていた、
ヒシヒシととその存在を背中に感じながら、

大丈夫、どこにも行かないから、
そういう様に、何も言わず、
わたしは座っている。

何故コレが焼き付くのかわからなかった、
鏡ガラスの意味も、
椅子の意味も
真理の想いも

それが少しだけ分かった気がした。

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