パラドクスの…。 そのクオリア化


前述記事において
クオリアが真の意味においては
始まりと終わりが同一であり、
個々人のクオリアは再合成段階の個別のルートであると言った。


現状様々なパラドクスが存在するが、このクオリアもその一つである。

そもそもパラドクスというものは
事象を引き起こす細分化された要因のどれかを
思考段階に於いて削除されているために起こる。

非現象と現象の間において万物が生まれた経緯がある
その源が例え非現象に存在したとして
我々が感じるクオリアが、個別に分類される以上
現象そのものと同等であるとはどうしても考えずらく、
しかもそれが、現象そのものでは無く、非現象であるとも言い難いものならば、
我々が感じているものはそもそも何なのだと問いたい。

その答えがやはりパラドクスである。
というか、
非現象と現象と個別のクオリアの相関関係が既にパラドクスに陥っているのである。


ある事がきっかけで
パラドクスの…。
と聞いた

私にとっては違和感でしかなかった。

通常の響きとしては
…のパラドクス。

パラドクスの…。
を考えた時、思考は一変した。

そもそも事象Aと事象Bの間において発生したのがパラドクスなのでは無い。

全事象を組み立てるそれぞれの可能性全体を通し存在するものがパラドクスであり、
現象界を支える全ての反応の大元がパラドクスなのである。
この得られたルートが主張する内容そのものは、
ハイゼンベルグの不確定性原理などとも一致する。


パラドクスのクオリア

いや、むしろパラドクスとも呼べるクオリア

この現象とも非現象とも呼べない個別にして無限のクオリアが生まれた場所がある。

もっと言うならそれら生み出す基盤、
それぞれの事象を計数として励起させる地盤。

非現象と現象の間にある基盤こそが
フラット理論である。

いや、言い換えるなら

パラドクスをクオリア化させた事で浮上してきた
大地が、正にフラット理論そのものだったのである。

やはり、ここに来てそこに還える面白さが
私にとっては堪らないのである。


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