真理への哲学

そもそも前提として既に逸脱している。
が、
最も効率的、かつ効果的であり、
そして考価的である。

存在しない事は語りえない

『語られた(事象)』という事実は語られた時点で
既に事実であり、
ゆえに『語られたコト(内容)』は事実である


この時、
『語られたコト(内容)』を『かたらされる事(理由、要因)』は
事実として既に『語られたコト(内容)』の内側、又は内部に存在している。
その要因を辿り内容は言葉、あるいは意識として事象化し、事実として産み出される。
事実は要因から常に変換を辿り生み出される。
逆も然りで要因はあらゆる経緯を経て、事実となる。


(コレは人の内面でも、物質でも言えることであり、物質と非物質の共通性として相似的理解を保つ、
万物が内側から外側に向かって力を伝えているという事実でもあり、あらゆる発声の経路である。
一見外側から内側にながれている様に見える力の動きがあったとしてもそれは変換的な伝達としてその対象が内側に転移しているだけで、起因となる動きは必ず内側から外側へ動いている(例:電気伝達など)。
他、形状としての一部抜粋をするなら、トーラスにおいて起きる流れ込みも発端は逆の動きが起因である、
循環というあらゆる認識も含めこれであり、
トーラス的な動きとも言え、調律調整含め内的バランスを構成するために耐えず呼吸の様な動きをしている。
役割りは安定の構成に尽き、つまりは外部から入ってくるあらゆる動きや、働きは全て調整的であると考える。)

語る対象が『かたらされる、事』は
語る対象が語るに至るすべての経緯を指す。
語る要因を請負った存在である事を、本来的に認識すべきである。

故に人間が想起し得る全ての事は
意図されたその存在の名により起き、
常に可能の範疇内部から産まれた純粋物であり、
つまりはやはり事実である。
そもそも不可能的な事自体、想起に上がることは無い。

これらの事実の創発は全て真理がもたらし
この地上に存在し得るすべての情報一つ一つが、
誰かの体験した一つ一つである。
相対の中で既に起きた通過済の実際的な事象である。

繰り返し、言い替え、変換を辿り三度言うが
この地上における全ての情報は
体験を全て通過した事実であり
個体という単位で今一度起きる通過は既に重複であり
必要性がそもそも無い事は明白である。
すでに昇華されたコトである。
但しこれは全事象がすべて事実として受け容れ来れる
土壌を兼ね備えた思考体系にのみ許された、コトであり、取捨選択を余儀なくされた思考体系には不可能となる。
しかし、二者の選択は可能で有り、与えられた自由でもある。

広い単位で見た時(ここ一文はある種トリップが必要)、これらの事実の至る所で起きる通過は人一人の脳という概念を越え、全体脳としての情報を押さえている。
この全体脳に於ける体験を通した全ての事実としての情報の流れ込みは本来的には相対の中で取るべき情報として、流れ込みを存在させる。

人にとって良質な情報も悪質な情報も、それら全てが体験者が精神の経験値として、全体脳の拡大化の為に用いられた貴重な情報の広がりであり、これは人類としての精神の総重量を示すためのものでもある。
意図されて起きたこの全情報の動員は
今この世界において必要な人類の経験値として導かれてきたものであり、導引である。

本来知識とはそのあらゆるドウインを指し、
個人が有する情報は知識と呼ぶにはそもそも隔たりがすぎるのである。
しかしその隔たりこそが、精神の総重量を拡大させている。
その拡大化された情報の外壁、俗にいう殻を念頭に、
中核に強固な殻を形成することが精神の目的であり、
座標的に物事を隔たらせる事は、
この本質とも呼べる中核の殻の形成において、
その中心地を狂わせるのである。
故に数多あるその隔たりを余すことなく
座標として扱う事自体
その分布から中枢を模索するという事を可能とする。

これが本来真理に於ける効果的探求であり、
語られたコトの是非を問う事自体が既に稚拙である
語られたコトの源流、在りどころを明瞭に察する事を洞察とし、
そのコトの起こりへの容認と理解が、優しさであり、
そのコトがその様に見える自己の精神への評価が真に自らを認識する事であり、
コレらを円滑な流れに於いて『解る』という認識を所有する事が本来知性と呼べるものである。
この言葉自体が私の中から語られた事実であり、
(同様に知性ある者は、えてして独自の言語を所有しており、言葉の意味を察するのだと認識するが、共感は必ずしも不用であり、その理由は一重に広がりにあると言ってもいい。)

万人、万物、万象、全ての所有する全ての事実への
信頼と理解と容認と憂い、それが精神性である。
これが、わたしの真理への理解と敬意とであり、
わたしの哲学性である。


人はいまだに、その自認する世界への絶対的信頼から抜け出すことが困難で有り、
見たもの全てがそれがあたかも全てであるかのように、
信じた物が信じる故、絶対であるかの様に、錯覚する。
思い込む、そう、自認にそぐわないものを既に非事実的である事の様に否定する、考慮も無く、理解への意図もなく、
そう、その行いは最早稚拙以外なんでも無い。

わたしが知ろうとしていること自体は真理であり、
物質化、顕在化、認知上、共有性の外側である。
ゆえに明らかに体験、体感、体現、それらにまつわる
再現性はあまりにも限定的である。

例えばスピという世界には多くチャネリングなどをする人らがいる。
それぞれの繋がるものには全くもって一貫性がなく、
情報に、統一性などはまったくなく、正直いって、それぞれ言ってる事があまりにも違いすぎ、矛盾が多い。
そしてその特徴たるや、さんざんたるものであった、
信じる対象ならば信じ、対象外は嘘として認識するか、
よく無いものとして認識され、また敬遠される。
スピリチュアルとは、本来精神性を指すものだが、
蓋を開けて見ればその程度のもので、精神的弱さを正当化させる為の麻痺剤としての役割が重だった。

かといって反スピ派も似たようなものだ、反論材料は性質の一部のみを扱う為、特に稚拙を極める、既に用意されたカテゴリーになんでも当てはめる癖があるらしく、自分が見たものしか信じられないのなら、
自分の認知しか許されないのなら、
この世界にこれだけの多くの認知はそもそも必要なく、思考放棄が甚しい。
はじまる前から結論の決められた議論ほどくだらななく、意味さえ持つ事ができない。
ある物がそこにはあるだけなのだ、
そもそも無い物は存在を許されない。
存在する以上は全てが事実として君臨している。
人1人体験し得る物事なんてのは、
この世界に蔓延る事象のほんの一部にすらなる事ができない、もはや、体験など、アリが踏み締めた大地の形くらいのものでしかなく、
蟻がどれだけその大地を語ろうとも、人は何も感じることは無いだろう。

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