『オレ』に起こった事



私にとっての『オレ』という存在がある


人間は本来いくつもの精神の状態をとる事ができる、
出来てしまう。

自分の中で強く、残っている印象がある。

どうしようもない悔しさや、憎しみや、怒り、憤り

現状年を重ねたこともあり、
また精神の状態を捉え、評価できる目線が内的に生成されたこともあり、
そしてそれ自体を内的に他感する事ができるようになったからこそ、
あの時の状態を辿り認識する事ができる。

そこから見るにその姿は余りにも悲惨な精神の状態とも呼べる。

現状の精神では二度と戻ることのできない一つの状態を形作っていたのは確かだった。

俗に言うところの黒い歴史なのだろうが、
ある一定以上の水準で精神活動を行う人間はこういう状態を過去に持っていた事は充分伺いしれる事ができる。

また現状そう言う状態にある精神も五万と存在する。

そういう状態から逃れる為
哲学的に考えてみたり、本を読んだり、また考えたり、
あるいは神という存在を傍に置いてみて、物事の状態の評価の指針を形成したり
思想家の云々に共感性を覚え、その状態を取ったり、なったり、まぁ手法は様々だ。

人間はえてして、そういう行いを経る事で、自らの状態を作り上げていく、又は修正をかける、又は補強する、又は戒める、又は…。

この状態にある時点では、正直なところ、指針を決めて手を加える段階である。

その為完全にベクトルは自分の非物質的視野から発せられている。

しかしそれを全体的なベクトルを使用し評価する事で、
初めて、自分の行いが現状どこにあるフィールドなのかを評価する事ができる。
感覚的ではあるが、知覚とは本来ここら辺界隈のものと似た周波がある

多分もうここらあたりで既に、言語的誤差が生まれ出してきている筈だ。

簡単に比喩を混ぜるなら、
A.自らの忌むべき過去へ
B.補正をかける為、
c.部屋に閉じこもり、
D.何かをしている状態だ。

これらには時系列があり、
それらを原因と結果として扱うからこそ
時間的な行動に変化が現れる。

AからDを一つのまとまりとして評価した時、
それぞれに本来あった細分化された疑問符は消失する。

この関係性の中で、あくまでも言いたいのは、その状態の理由が原因に委ねられているかどうかというところである。

結果の扱いについて
生まれた結果の原因と思しきその全ての起因にゆだねた場合、そのフィールドを脱する事なく部分として存在を許す
委ねない場合、原因からただ単に表出した事として、全ての結果を状態に落とし込んむ事が可能になる。
この場合の原因と結果呼ばれる一連の状態は、
纏めて一つの現象として存在させる事が可能となる。

つまりは人間の一つの行いや流れは、自然的な現象や、事物として、計測されるフィールドが存在するという事だ。

自問自答や、精査もそうだろうが、
やはりもっと根源的な、本質的なところまで
『引き下げた』時、
そもそもが存在した、せざるを得なかった、また存在せねばならない事に意識が向き、このフィールドは生成されていく。



人間は生きた生き物だ、感じる事も、寄り添う事も、気遣う事も可能だ、
むしろそちらを主体にしなければ、会話なんて全くの無意味とも取れる、
万人に対しそれが出来ないなら、
それこそそれはAIやコンピューターが存在する為、
その存在意義は全く失われていいとさえ思う。
私は徹底的に好まない。
また、人にとって評価が許されるその対象は自分にだけという考えのもとでもあるが、他者が他者を評価し、接点を調整する事は
私は特に嫌悪する。

『オレ』が受けた仕打ちが、全くのそれであったから。

勿論それはそれで、それぞれで好きにやればいいと言う理屈もあるのだろうが、それはあくまで、『部分』としての評価なので、更に沈んだ次元ではこの部分は消え失せる。
それこそ、勝手にすればいい。
本質的な哲学性や神聖的神域以外はその重いフィールド内では全て消え失せる。
これは私がそう言ってるというよりかは、
物事がそのようになってるからそうとしか言いようがない。
半端なものは存在すら出来ない。

ここまでフィールドの扱いや性質上のことを述べてるわけだが、ある一定までの哲学的な事や、神的な事も全て含め、あくまで部分としてなら存在できるというわけだ。
普遍性はその下のやはり重い次元に降りてきたものだけに限り付与される。

それより更に下にあるものが、常に、それらを全て取りまとめた、深淵に近しい事である事を付け加えておきたい。

この場所から見た時、私はあの当時存在した筈のオレという存在をどう処理していいかわからなかった。

どういうことかというと、
深淵からしてみれば、
万物はその深淵の責任において、その一つの状態とも呼べる部分が存在する。
私にオレが存在したのはあくまでもオレの責任でもなく、その他の責任でもなく、
深淵から表出した、元素的部分である為、
完全にその責任はそこに委ねられる。

私があの時、オレだったのは正にそいつ(深淵)のせいである。
私は全ての存在に意味があるとやはり考えている。
肯定されるべきだと、美しいと、そう感じているのは確かだった。

では何故、私はオレをそのままに、忌むべきものとして進んでいたのだと、そう感じずに入れなかった。

エゴに塗れ、オレという存在が生まれてしまい、
他者から受けたエゴをそのまま反射してしまった。

だからこそエゴは嫌いだった。
しかしエゴを嫌う理由を自ら自答したとき、
エゴとは何かを考えざるを得なかった。
エゴにまとわりつくもの、エゴを評価するもの、エゴという評価を唯一下さるもの、又はその背景となる指針、
やはりそれは偶像的部分だった事は間違いない、
単純な原因と結果から生まれたそれを深淵から評価したときそれは単純にまとまりを帯びた現象の一部となった。

だから私が生み出したあの毒の意味を考えたとき、
あの原因から生み出された結果が超自然的なこの状態ならば、この一連の流れはまさしく、現象なのだろうと思った。

この現象が向かう方向性は一つしかない。
やはり、より良き地を生み出す為、より脊椎を洗練する為、あの時の『オレ』の毒はそのままに、持続せざるを得ない。
私が一つの現象として、存在し続ける為
脊椎や、新たな遺伝子のコード履歴を生み出す為に、
捧げられる持続可能な生贄の存続、
オレは常に必要となる。

だからこそ私はいや、『オレ』を含め現象と化した私はその為の手段と言えるのだ。

それが私の答え。



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