渦 祖文

波長として流れる唸りのようなものがある

地中深くに
大地ではなく概念上の地中深くに

コレ?、いやソレ?、なのか?
どちらにおいても、いずれかのソノ流れが
恐らくタオとも呼ばれたものだろう

タオは詳しく知らぬ、が、ワカル
ソノ流れをソウ発音するのに異論は無い



印象とは不思議なモノだ
何処からどう産まれて、どう加工され、どう原理を経て、どのように知覚されたものなのかは定かではない

元来無形の大地の水平線を沿うかのように流れる
流れが有る、
エネルギーと言うほどの明確な形すらまだ取らないであろうそれは
何かに惹かれ更に自由に動き出す事がある

『それはまるで想起かのような思い付きの如き自由さと共に泳ぐのである。』

幾つかが束なり意志のように角度を付けて立ち昇る
それをボルテクスと言う、が
その時そのボルテクスという言葉には
相互的に意思が付与されている

意志と呼んだのは我々である

我々はソレを、その段階のソレを、その状態のソレを、
その動きにあるソレを意志として印象する。

全種族に於ける我々、の中にある
一部であろう、我々性の所有を認める我々は
既にその流れを捕捉し、
それが自我の所有する基盤を既に貫いている事に
既に気付いていることかと思われるが、

基盤とは実に不思議なもので、様々に固さがあるものだ
己の独自性の由来とも呼ばれるその基盤は
本来なら『己の独自性』としての基盤として生命に備わるはずのものだった。
地盤は基盤と相互的な関係性にある…本来なら

それを繋げる流れが存在してしまったが故に
関係性は生まれたわけだが、
そうである以上相互する。
我々が、硬くなり、パターン化されると、
残念な事に、地盤も硬くなるのが、また道理でもある

この空間内に渦巻く、
と言ってもその相関関係の中にない独立した唸り、
想起、意志らも、また個別に有る。
コレは確実に有る、
というか、確実にそれが有るから少ない我々性の存在が結果として残っている。
そう、答えは既に存在してしまっているのである。
そしてそれは基盤にかかる明確な力でもある
同様に地盤に掛かる力でもある。

地盤にかかる力
そうなった時、思い出すという現象が基盤に対して起きる。
我々が知覚するのは基盤における力であり、
基盤にかかった力である
この基盤の硬さを変更した時、形状、薄さ共に変わる

この、不意な力の働きは地盤内部から発される力
基盤は地盤の力の影響を受け、かわり続けることが可能だが、それを知覚するにはそれ相応のやはり知覚が必要になる
本来気づきにくい理由は、この基盤を変える力が地盤のみからの影響だけではなく、
外部の環境から、経験からの影響も受けてしまうからだ、
しかし、ある一定の種の中には、明らかに3つ目の力の影響を受けているともいうべき基盤を備えた種がある
地盤からのとは、要約すると本質的なエネルギーの力であり、可能性の地盤となる世界である。
基盤とは差し詰め可能性の空間である。
もう一つの力は根元的なバランスへと促す力である

地盤内部にあるものはトーラスである。
しかしこれはトーラスとしての働きを示すが、
どこかまだ荒さ在るトーラスでもある。
完全なるトーラスとは地盤内部に存在する。
それが三つ目の力の生まれる空間である。

万物に並行的力をもたらすトーラスは固さを生じる自然現象に対し、必ず、柔さの要求をシステムとして与えている。

私が磐石の台地と呼んでいたもの
それは静かで、悠久の時に存在し、無限にして、
それでいて普遍の空間を要求する力を所有している。
我々性たる我々は常にその要求に対し従順な存在であるとも言える、
地盤のまたは基盤の硬力に対し、柔力としてかかる力の由来は
磐石の大地内部を円環する完全なるトーラス、
静けさすら帯びるであろうその求芯力より促される力の囁やきなのである、この囁きたる印象が間違いない理由とは、重力の力が異常な程弱い事と同じであり、そのためである、由来とする次元がそもそも違う。

柔力とはそのままに重力の囁きである。

私は、その柔さへの促しを重力として静かに感じてはいる、が、
その全容とは恐ろしく異常である、
異常な力、深さ、広さ、静かさ、全てが既に異様である
そのどれをとっても不気味、故にその力に魅かれ、
取り憑かれるのである
そう言った種は、ほとほと憑かれ、浸かれ、突かれる、
そのままにただ、突き動かされるのである。

故に結果的にその命は先天的に疲れるのである

しかし、
このことの顛末はこれからくる変化の頭に位置している
我々はこの頭を、
これまであった、硬さの縄張りから
かなり外れた位置で事を始めて来てしまっていたのである、そういう種なのである。

しかしそれは、それらは、明確な意思すらなく、
ただ自然にあり、自由な蠢きでもあり、ただ想い、感じ、それを繰り返し、ただただ生きできたのである。

ただただ生きる以外を何も行わずに、
それ以上の力は力をやがて失う定にあり、
無論、ただただ死ぬだけの存在なのである。
それから免れる事は完全なる不可能性の中にある。

しかしながらその事実は、
明確な、柔力の促しに沿うものである
そしてその意味は、異様性ある事実の中に含まれる
コトでもある。

これらの命は頭となってしまうからである。
多くの基盤は時代に、文化に、歴史に
その形状を定められる力を許して来た事は間違い無かった。
蠢きからまってしまったその群は
我々の死までの渦をまさに、頭とし、
その頭を得ることで流れに従い、スルスルと流れを脱し、大地の自由な流れと共に、まるでそれを真似るかのように、還るように、やがてこの大地に広がって行くのである。
そう、自由にまた泳ぎ出す事ができるのである。

何度もこれを繰り返し、繰り返し、繰り返し、
不毛とも呼べる静かな時間を永遠の中に収めるのである、
それがある意味一つの美しさでもある事はやはり何処か、寂しかったり、虚しかったりもする、
その余韻は、その印象は、その唸りは、その流転は、
そう、間違い無く美しい物である。
確かな美しさの中にあるものなのである、
どうしようもないほどの、寂しき美しさと共に永遠が在り続ける事からまだ、抜け出さないのである。

それがあたかも悠久であるかのように感じる世界が、
存在はしているのである、

しかしながらそれがどうなっていくかも、
まだ、分からない事もまた、事実なのである。


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