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やまなし考

娘の寝かしつけの時に宮沢賢治の『やまなし』を読み続けたお陰で、娘は『やまなし』が好きだ。
単純に「国語の教科書に出てくる内容を先取りするとお得」という理由で読んでいた『やまなし』だが、改めて読み返すと新たな視点が生まれるものだ。
作中に「クラムボン」と「イサド」という謎の造語が出てくる。これが何を示しているのか…というのは諸説あるようだけども、国語の授業では「クラムボン」は泡のことであると習った記憶がある。
しかし、今の私には「クラムボン=お母さん」に感じられてならない。
作中の登場生物(?)は兄弟の蟹とお父さんの蟹、魚、カワセミのみで、お母さんの姿が見当たらないのだ。
「かぷかぷ跳ねて笑うクラムボン」は「殺された」。
『それならなぜ殺された。』『わからない。』
頭上を行ったり来たりする魚が兄弟の蟹の吐いた泡を掻き壊す光景に重ねて、兄弟はそう語る。
魚は『何か悪いことをしているんだよとってるんだよ。』と兄が言う。生物を捕食しているのだ。
その魚は直後にカワセミによって捕食される。自然界で容赦なく繰り返される「食う、食われる」のリフレインだ。
宮沢賢治の作品にしばしば現れるテーマである。ことに『よだかの星』に顕著だ。
先程述べた通り「クラムボン」はお母さんの蟹のことを表しているとすれば、『殺された』というのは他の生物に捕食されたのだと考えるのが自然だ。
この文脈で考えれば、もう一つの造語「イサド」(どうやら地名らしい)は母の蟹に関連する場所だと考えられるのではないだろうか。
父の蟹が子供の蟹を連れて母の墓参りに行く光景が思い浮かぶ。
冷たく透き通った水底の風景も相まって、どことなく寂しい印象を受ける『やまなし』だが、こう捉えるとさらに切なさが増すように思う。
そんな事を考えながら、今日も読み聞かせをするのだった。

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