たった585分でオリジナル曲 カヴァー曲 10曲を録音してしまってビートルズ 四人の絆はもちろんエプスタイン ジョージマーティン スタジオスタッフの信頼も勝ち得えた EMIスタッフは80年代を代表するタレントのプロデューサーとなる人が出ている ビートルズのスタジオ制限はもう無い
朝10時 録音は There's A Place から始まり 四人はランチもとらず スタジオスタッフから驚愕の声 1時間1曲 ジョージマーティンはこれしかないと思っていた 最後の録音 Twist and Shout は時間も無く 一発録 のど飴を舐めながら ジョンは歌った
あのレコードとは ビートルズ最初のLP Please Please Me の事 1963年2月11日だけで新曲10曲を585分で録音してしまった スタジオは600分しか使用できずビートルズはほとんど毎日ライヴ 奇跡の一日 ジョンは風邪 のど飴は必需品
Love Me Do の頃 ビートルズにもセッション報酬が払われていた 大体一回のセッションで 7ポンド10シリング程度 安いの高いの?わかりません ドラムのアンディーホワイト 9月11日のセッションには 5ポンド15シリングが支払われ 当然タンバリンを叩いたリンゴにも
あのレコード録音の前に EMIロンドンスタジアム事情 アビーロードと名乗ったのはアビーロード発売の後 録音は書面で希望スタジオを請求し空いているスタジオが割り振らわれる ビートルズでも朝7時からの録音もあった。技術者はなんと白衣を着せられていた。英国式と言えば聞こえはいいが・・
1963年1月11日 第二弾 Please Please Me/Ask Me Way リリース 作詞作曲はポールだが ジョンやジョージマ-ティンからボロクソに リズムやコーラスを作り直し シングルチャートトップには届かなかったが充分すぎる成果だった 次はあのアルバムの録音
売り上げは全英シングルチャート17位 リンゴがドラムを叩いたヴァージョンは発売後アンディー・ホワイトヴァージンに変更 噂 レコードセールスがリヴァプール周辺で多かったのはエプスタインが買い占めたからと噂がある その数1万枚!リンゴがドラムを叩いたマスターテープは破棄された
1962年10月5日パウロフォンから初のシングル盤発売 A面 Love Me Do B面 PS I Love You ジョンとポールの曲 こんなことはビートルズ以前なかった 与えられたプロの曲を歌うのが普通 彼らの政治的手腕のすごさ ジョンとポールが力を合わせた結果だ
1962年9月4日EMI ロンドンスタジオでの初シングル盤録音 How DoYou It ジョージ・マーティン提示の曲 録音したが 大人の取引 Love Me Do をシングルにする替りHow DoYou It 著作権管理者をレノン&ポールの著作権管理者に 彼ら大儲け
〈あらすじ〉 一九六六年夏 日本に四人の英国人 ビートルズがやって来る。 リヴァプールからロンドン ニューヨーク そして東京。 世界中に歓声と怒号を起こすリヴァプール訛りの四人組。 ジョン・レノン ポール・マッカートニー ジョージ・ハリソン リンゴ・スター 一九六六年 三月の日本 お転婆由美が突然言い出した。 「あたし、絶対ポールに会うんだから、絶対に」 達郎は空を見上げ佳祐は笑いだす。 なんと今年六月ビートルズが日本にやって来ると言う。 あの武道館で演奏するんだって
Tレックス日本武道館ライブ友達参加したが一言 ヘタ 行くんじゃなかった デビットボウイとグラムロックブームを起こす原動力となった。パンクロック台頭の影響を受け活動はしぼみ、妻の運転するミニクーパーの事故により死亡。ブルーズ R&R ハードロックとは違う音を聞いた
音楽小話 Tレックス グラムロックの代表的バンド。 マークボランは一時期パウロフォン・EMIに在籍 売れなかったが、ティラノサウルス・レックスと名乗ったころの生ギターとボンゴの演奏は好き。1972年 Get it On発表。同年Electric Warrior7週ナンバーワン
音楽小噺 故加藤和彦氏がエルトン・ジョンの家ではなくお城を改造した邸宅のパーティーに参加した時のお話。女子学生のセーラー服を着た髭ずらのおじさんがいて、飛ぶように踊りを踊っていた。場違いな感じがしたが、なんとエルトン・ジョンの父親だったというお話。わかるような感じがしますね。
リヴァプールからロンドンまで286Km 東京 名古屋間315Km 一晩中夜の2時3時まで何ステージも演奏の時代 楽器を積んだワンボックス(何とか走る)に四人乗って一般道をロンドンまで走って4曲演奏 今度こそEML専属契約 よかった 9月のシングル盤録音には問題があった
ハンブルグから帰ってリヴァプール キャヴァーンや他のクラブで演奏する日々 マネージャーに就いたエプスタインのEMIと契約の嘘に誘われテストセッションへ リヴァプールからEMIロンドンスタジオまでバンド機材バスで移動 まだアビーロードスタジオとは言わなかった のちに改名
苦難のハンブルグ時代。プロモーター アラン・ウイルアムズからハンブルグ演奏に行かされ一晩何ステージも演奏、寝床は映画館の暗いスクリーン奥の部屋。退廃したクラブとアンフェタミン、だがハンブルグ時代は趣味のバンドからプロのバンドへの変革であった。歌手のバックバンドからオリジナル曲へ。