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複雑であることの悪さ──片岡大右『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』を読む

 2023年2月17日に発売された批評家・片岡大右さんの新著『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』(集英社新書)は、その名の通り、2021年に起きたCornelius(コーネリアス)こと小山田圭吾さんの炎上事件を分析し、小山田さんを擁護するための本だ。

 本書で片岡さんは、ネットや文献を厳密に読み込んでいくことで、当時、実際に何が起きていたのかを真摯に検証しようとしている。読めば、「いじめ事件」が不幸な行き違いによって起きた情報災害だったことが理解できるはずだ。だが、この記事で私が言及したいのはそこではない。

 先に書いておくが、私はフリッパーズ・ギターやコーネリアスをそこそこ好んで聴いていて、炎上当時も小山田さんに同情的だった人間だ。過剰なネットの叩きには辟易していたし、彼を擁護する外山恒一さんの記事を読んで溜飲を下げていた。なのでもちろん、この本を読んだのも炎上の検証に興味があったからであり、別に「小山田のいじめが作られたものだと!? フェイクニュースは許さん!」と意気込んで読んだわけではない。

 ところが、この本を読んだことで、私の炎上に対する態度は変わってしまった。小山田さんに対して嫌悪感を持つようになってしまったのである。

 なぜ、擁護本を読んでアンチになるのか。自分でも不思議だが、おそらくその原因は、著者である片岡さんの書きぶりにある。それは、一言で言えば、「複雑であることに対する恥」を忘れたものだったのだ。

『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』(集英社新書)

■「物事は複雑に捉えるべきである」という教訓

 この本は、炎上を検証するだけでは終わらずに、そこから一つの教訓を導きだしている。それは、要約すれば(要約してはいけないのかもしれないが)「物事は複雑に捉えるべきである」というシンプルなものだ。例えば、「まえがき」では以下のような書き方でそれが宣言されていた。

 小山田氏をめぐるスキャンダルは、単に彼個人にとってのみならず、不安定さと曖昧さを抱えた複雑な存在としての人間そのものにとっても不当だったと、わたしは考えているのです。その意味で、事情の複雑さを跡づける本書の試みは、単純化の暴力から人間一般を救う努力の一環をなしています。

〝単純化の暴力から人間一般を救う〟
 つまり、人間・人間社会・自然といったものは本来複雑であり、人間はそれをどうしても単純化──例えば「善悪」の二元論に──して捉えてしまう。それは例えば、肌の色だけで人間を区別しようとする人種差別へと結実し、人間社会に悲劇をもたらす原動力にもなった。片岡さんは、そんな暴力の実態を暴くために、1章冒頭で、フランスの社会学者リュック・ボルタンスキーとドイツ出身の哲学者ハンナ・アーレントの議論を参照している。

 ボルタンスキーは著書『遠くの苦しみ』で、自分の手の届かない場所で起こった誰かの苦しみに対する想像力の問題について論じているという。ニュース越しに社会問題に触れた人々は、道徳的な感情のために、それを告発・拡散しようとする。しかし、告発の拡散は感情的なものであるため、その情報からは「視点の複数性」が失われ、単純化されてしまう。こうして、(メディアの普及前なら)起きなかったはずの悲劇が起こってしまう可能性がある。

ルイ16世の処刑

 その具体例が、アーレントが著書『革命について』で論じたフランス革命での悲劇だ。そこでは、虐げられている庶民の想いを代表した人々が、貴族や敵対勢力をギロチンへと送り出していった。不幸な人々への想いは、必ずしも幸福な人々の処刑には繋がらないはずだが、それはいつのまにか単純化・過激化していった。

■複雑なものは素晴らしい

 片岡さんは、小山田さんのいじめ炎上事件を、このような悲劇の一種として論じようとする。

 岡崎京子のマンガにおける「いじめ」描写や、事件の原因となったブログの題名「小山田圭吾における人間の研究」の元ネタである三木清の人となり、フィクション的想像力が現実に絡めとられることを嘆く蓮實重彦さんのエッセイなど、さまざまな対象について論じているが、導き出されるモチーフはすべて同じ。「複雑なことを不当に単純化してはならない」という、冒頭で書かれたのと同じく単純なメッセージだ。

 さらに片岡さんは、小山田さんの言動や音楽に、物事を複雑に捉える視点を見出す。上っ面だけの「いじめは良くない」といった単純化した謝罪を選ぶのではなく、インタビューなどで当時の現実を語りながら、徐々に内省を深めようとするその姿勢が称賛される。一方、情報を不用意に(または悪意を込めて)拡散した毎日新聞やブログ主やツイッタラーたちはほとんど罵倒に近い勢いで批判されていく。

 実際、コーネリアスの音楽表現はそのような方向性を目指したものだと私も思う。事件の責任は情報の拡散者たちにあるだろう。だが、この新書は、本当にそういう内容で良いのだろうか?

■「複雑なエリートと単純なバカ」の二項対立

 片岡さんがこの本でやっていることは、本人のご専門でもあるフランス現代思想でいえば、「二項対立の脱構築」にあたるだろう。この本の中では「いじめ加害者⇔被害者」「善⇔悪」などさまざまな二項対立が、物事はそんなに単純ではないと批判され、解体されていく。そして物事を複雑に捉えようとする人々が褒め称えられる。

 だが、このような「二項対立破り」には、実は落とし穴がある。物事を二元論で見てしまうような人々を見下し、複雑に捉えうる人々を好意的に見た時、そこには、「低学歴で単純なバカども⇔育ちが良くて複雑な(わたくしたち)エリート」という別の二項対立が現れてくるからだ。

 この本では、2ちゃんねらーやはてなブログの書き手といった無教養な下層の人々が「批評的な吟味に値しない」などと罵られる一方、コーネリアスや岡崎京子、蓮實重彦のような高貴で複雑な人々が称揚される。もうこの時点で、貧しい育ちでネットに入り浸りながら過ごしてきた私にとっては、著者と小山田さんに敵意を抱くことしかできなくなる。

 そりゃ、生まれが良ければ「物事は複雑」とか言いたくなるでしょう。貴方には怒るような体験なんて何もないんだから。告発と拡散が一切なく、フランス革命も起こらなかった社会は、貴族である貴方たちにとって極めて都合の良いものなんだから。この本の中で小山田さんは、そういう複雑で育ちのよろしい人々の象徴である。もう嫌うしかない。

 二項対立はこのような思考を私に強制する。そうなるのは片岡さんのせいである。片岡さんの脱構築が中途半端だからだ。どうせ物事を複雑に見るなら、この「エリート⇔バカ」の二項対立にも目を配らなくては、片岡さんが本当にこの話を届けたかった相手には何も伝わらないだろう。最初からバカに向けては書いてないというなら何も言えないが。

■批評性は誰に向けられるべきか?

 問題はそれだけではない。現代日本において、(集英社)新書の典型的読者は、「ほどほどに知的な中年〜高齢者男性」だろう。それは、筆者の片岡さんの属性でもある。既得権者である彼らが世の中でもっとも物事を複雑に見たがる人々であることは、もはや言うまでもない。つまり、この本は、物事を複雑に見ると都合の良い人々に向けて、「物事を複雑に見るのは素晴らしい!」と書いてしまっているのだ。

 これで、本当にいいのだろうか? 片岡さんの書いたことが全て無意味な訳ではない。この本は、事件からそう時間が経っていない時期にnoteで無料公開された連載を元にしている。事件当時、まだ人々の憤懣冷めやらぬ時期に(我々バカも読む)ネットで無料公開する文章としては、これは大変素晴らしいものだ。だが同時に、新書という媒体で読むにはあまりにグロテスクである。

 片岡さん、そして物事を複雑に見たがる皆さん。こんなネットに転がっているバカの文章はそもそも読まないのかもしれないが、もし読むことがあるならば、これだけお願いしたい。物事を複雑にみることの悪さを知ってくれ!

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