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誰も「戦後」を覚えていない──山崎貴『ゴジラ-1.0』感想

 新宿ピカデリーで山崎貴『ゴジラ-1.0(ゴジラ・マイナスワン)』を観て、なかなか楽しめたので、感想を書いておく。もちろんネタバレありなので、注意してほしい。

◆本当に「ユアストーリーしていない」のか?

 舞台は1947年の日本。機体が故障しているとウソをついて生き残った元特攻隊員・敷島は、闇市で出会った少女・典子とその連れ子を育てるために、戦中にまかれた機雷を除去する仕事に就いている。戦争で死ねなかったことへの罪悪感を抱えつつも、前を向いて生きていこうと敷島が決意したころ、かつて戦場で遭遇した怪物・ゴジラが東京へやってきた。米軍も政府も頼りにならない状況の中で、敷島たちは民間で対策チームを結成し、ゴジラを倒そうと計画を立て始める──。

 ゴジラ史上初の「戦後」という時代設定が話題となった本作は、ネット上で賛否両論を呼んでいる。設定に整合性がなく、人物造形・セリフ・展開がことごとく陳腐(または保守的)で、戦争に対する姿勢も中途半端な「ダメ映画」として拒絶する層もいれば、同じ側面を取り上げて、大衆ウケに徹している点を評価したり、素直に感動したり、むしろ反戦のメッセージを強く感じる人までいる。ほぼ満場一致で称賛を集めているVFX描写を除いて、かなりかけ離れた感想が双方から出てきているわけだ。

 中でも目立っているのは、山崎の過去作『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を引き合いに出して、今回のゴジラは「ユアストーリーしていない」と評する声だ。詳細は省くが、『ユア・ストーリー』は、人気ゲームを原作としたにもかかわらず、脚本を兼務した山崎の特質が強く出たストーリーが「原作ファンを馬鹿にしている」と大きな反発を受け、半ば「炎上」状態となったことで知られる。つまり、「ユアストーリーしていない」とは、「今回はファンを馬鹿にしていない」という意味をもつ。かつての炎上で山崎を批判していた層が、今回は支持に回っているのだ。

 まとめると、本作には、──「VFXの質が高い」「全体的に陳腐(よく言えば王道)である」という一致した感想に加えて──「真摯な反戦映画である」「戦前を否定しきれていない保守的映画である」「ユアストーリーしていない」という三種類の感想が寄せられている、ということなる。だが、結論から言えば、この三種類の感想には、いずれも誤解、または語弊がある。そう私は考えている。

◆完全に破壊された「戦前」

 まず、「戦前を否定しきれていない」という声についてはどうか。ここで重要なのは「戦前」が何を意味しているかということだ。メタ的な目線は置いて、作中で「戦前」がどう扱われているのかを考えてみよう。

 本作でもっとも焦点となっている「戦前」は、主人公・敷島のもつ、「死ぬべき時に死ねなかった」という罪悪感だ。ゴジラに立ち向かう軍人たちは、敷島に限らず、戦場で死ねなかった者ばかりで構成されている。また、劇中で使用される兵器も、「震電」や「四式中戦車」など、戦争に「間に合わなかった」とされるものが多く、死に損ない、戦い損ないのイメージが強く刻まれている。本編冒頭、隣のおばさん・澄子が敷島を責め立てるシーンは、まさにこの「戦前」を強調するためにある。

 しかし、この「死ねなかった、死ななければならない」という感情は、中盤以降、驚くほど大胆に放棄されていく。ゴジラ討伐作戦は、立案者・秋津の提案のもと、「一人も死者を出さない」ことを目指すことになる。このシーンでは、「この国は命を粗末にしすぎた」とわざわざ口頭で説明まで入る。特攻を決意していたはずの敷島は、パラシュートで脱出して生還する。ここでは「お国のために死ぬ」という戦前的価値観が完膚なきまでに破壊されている。

「戦前」を象徴しているのは罪悪感だけではない。戦前から「何も変わっていない」と嘆かれる政府首脳陣は、国会議事堂ごとゴジラの熱線で消滅する。「戦争でも破壊されなかった」とわざわざセリフで説明される──戦場に行かず戦後に富を蓄積した経済エリートたちが集まる──銀座の街もまた、粉々に破壊される。

 つまり、『ゴジラ-1.0』では、戦前を象徴・代表するヒト・街・価値観がそれぞれ徹底的に破壊されている。そのために、強引に米軍と政府を主人公から切り離し、結果として設定にかなりの無理が出ている。そこまでやっている映画を、「戦前を否定しきれていない」と切り捨てるのは、やや不当な評価ではないか。

◆不徹底な「反戦」

 以上見たように、本作は、徹底した「反戦前」映画だ。しかし、「反戦前」であるからといって、それが「反戦」であるとは限らない。日本に限った話ではないが、戦前を否定することが、新たに戦争を肯定することにつながる場合もあるからだ。

 たとえば、劇中、敷島たちとゴジラが戦っているのは1947年だ。占領下、国連も米軍も守ってくれない状態で、元軍人たちが作った自衛組織が国民的脅威(=ゴジラ)を退けると、占領が終わった後の日本はどうなるだろうか。史実では、国連に安全保障を頼った非武装中立を望む護憲派と再軍備を訴える改憲派が拮抗し、憲法を変えないまま限定的な再軍備を行う玉虫色の状態が定着することになる。だが、敷島たちのいる世界線の日本では、改憲再軍備派が優勢となり、憲法9条は早々に放棄されることになる可能性が高い。有事に「国連も米軍も守ってくれない」という国民的経験を経ているからだ。もしこの作品が戦後当時に作られていれば、むしろ「改憲プロパガンダ」として扱われたかもしれない。

 それだけではない。「今回は戦争よりマシだ」という、ほとんど死ぬことが確定していた末期の太平洋戦争とゴジラ対策を比較する劇中のセリフは、開戦当初の「必ずしも死ななくてよかった時期」を排除している。さらに言えば、敷島たちが放棄したのは「死ぬために戦う」ことだけで、「自衛のために命がけで戦う」姿勢はむしろ賛美されている。だが、初期の太平洋戦争で軍人たちは、少なくとも意識の上では「自衛のために命がけで戦」い、できる限り生きようとしていたはずだ。そこで異常とされているのは、特攻をはじめとする末期の日本軍の姿勢だけなのだ。

 より重要なのは、本作がメタ目線で見て「反戦」かどうか、ということではなく、劇中で「戦争そのものに反対する」メッセージが発されていないということだ。たとえば、典子や澄子が敷島の「対ゴジラ参戦」を知っていれば、「戦うより逃げて生きることを選びましょう」と声をかけたかもしれない。また、結果的にほぼ全員が居残る、ゴジラ対策への参加の意志を問う場面で、誰か1人でも主要メンバーが抜けていれば、それは(初代『ゴジラ』における芹沢博士のような)反戦の象徴になりうる。そうなれば、生き延びることと戦うことが天秤にかけられ、反戦がテーマに入ってきたかもしれない。

 しかし、実際の本編では、戦うことに対する葛藤を描写するシーンが存在しない。典子や澄子は敷島が戦おうとしていること、戦っていることを最後まで知らずにいるし(非常に不自然だ)、名前のあるキャラクターは決して戦うことを忌避しない。ここに「反戦」を見出すのはあまりに恣意的だ。

◆私たちの物語

『ゴジラ-1.0』は、徹底的な「反戦前」映画ではあるが、同時に「反戦」を徹底的に排除してもいる。そしてこのことが、本作が明確に「ユアストーリーしている」ことを証明することにもなる。

 改めて言えば、「ユアストーリーしている」というのは「原作ファンを馬鹿にしている」ことの言い換えだ。だが、ここでの「原作ファン」とは一体誰なのか。もしそれが「いま現役世代のゴジラファン」だとすれば、たしかにこの作品は「ユアストーリーしていない」かもしれない。しかし、ここで原作を──初代『ゴジラ』の存在を含む──ストーリーの舞台となった「戦後日本」と考えればどうなるだろうか。

 戦後日本にあって現代日本にない、戦後日本固有の精神性は、概ね三つに分けることができる。一つは、戦前派のエリートたちに見られた、戦争を日本の「脱線」と考え、なるべくスムーズに戦前へと回帰しようとする「戦前回帰」。もう一つは、日本社会党の党是だった、二度と戦争を起こさないよう、非武装中立を夢見る「平和主義」。最後に、三島由紀夫など文学者に代表される、戦後日本の繁栄を偽りのモノとして、生き延びた罪悪感を忘れず、日本の破滅や自身の死を願う「破滅願望」。いずれも、かつては確かに存在したが、今の日本ではほぼ消滅したものだ。

 これに対して、『ゴジラ-1.0』は、この三つの価値観を、見事にすべて放棄する。戦前派は熱線で消滅し、平和主義は視界から排除される。そして、破滅願望の化身たるゴジラは、ともに破滅願望を持っていたはずの敷島たちに敬意を払われつつ、海の底へと沈んでいく。代わりに称揚されるのは、戦前とは完全に断絶し、戦争への罪悪感をもたず、自衛隊を持つ「現代日本」の精神性だ。この映画は、戦前と戦後を、「現代」の価値観で丸ごと塗りつぶす、改憲再軍備でも護憲非武装でもなく、「護憲再軍備」を改めて選びなおし、歴史を書き直す映画なのだ。

 だから、本作を「保守的」とみなす人は、それが戦前的だから非難しているのではなく、むしろあまりにも〝現代〟的だから非難している、と言った方が正しい。また、「いま現役世代のゴジラファン」にとって、本作は絶対に「ユアストーリーではない」。それはむしろ、彼らがいま持っている価値観を全肯定してくれる、「私たちの物語」となる。だが、もう一方の原作である「戦後」のファンにとっては、なんとも残酷な「ユアストーリー」にしかならない。

 もっとも、ネットでそんな風に怒っている人は見かけない。戦後の価値観に愛着を持っている人など、もういないからだろう。私たちの住む現代日本では、「戦前回帰」は罵倒語でしかなく、「非武装中立」は死語となり、破滅の象徴であるゴジラは現実を肯定するための道具にしかならない。誰も「戦後」を覚えていない。それは仕方がない、仕方がないことなのだが……。



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