日報・2

同情という情の共振に対格が存在するのか、という彼此の問いにはもう効力がないような気がしています。架空の人物を架空で転がしていると、そこに新たに額縁が浮かび出て、私の中の分人が再構成されていくようで不思議です。架空の人物について思案元の私が同情しないことは、一瞬ありえないようで、そうおかしいことではないです。性格の基があり、反復的にパターン化された組み合わせがあり、それらの総合があり、どこに自我が置かれているのか、というのはつまらない疑問ですが、少なくとも架空の人物を想うとき、真ん中のほうから幅をとって崩落していくのを感じます。そうなると、書き物は著者の持ち物という考えも(狭く見積っても小説分野では)疑わしいです。組み合わせというと言語のことも考えてしまいます。今はうまく言えませんが、なにやら亀裂は多いです。

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