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這子

劇団企画でうれしいことに文章を書く機会が与えられ、勇んでそのようにしたので、そのような文章をここにも残しておきます。

 稽古場の帰りに下鴨あたりの住宅街を漕いでいると、左手の奥の方から小さな物陰が見えてきた。どうやら歩道を少しはみ出て、丸頭の男の子が寝そべっているようである。うしろで組んだ手とランドセルとを二重の枕にして、ちょうどマンションの群居と夕空とのあいだを見上げながら、彼は鈍くガサついていた。最初、私は泣きの地べたかと思った。しかし接近してあらわれた男の子は、まったく濡れてもへこたれてもいなかった。それどころか、ただの幼いパーツの寄せ集めが、どうにも哀惜というか、望郷というか、そういう複雑性を帯びて大人びていたのである。私は不意を突かれて、喉から出かかった言葉もまるっきり引っ込んでしまった。ぬるい心配も、お決まりの声掛けも、まとめて水になってしまった。あたためた言葉が繰り出せずに悔やむことはよくあるが、言葉が裏切られて蠟涙のように溜まることはそうない。
 待たれること。経験してきた帰宅のことを思い出す。私は辺境の出自なので、基本は長い帰宅だった。中学はひとりで海沿いを漕ぎ、高校は祖父が最寄り駅まで迎えをよこしていた。実家は道路からはっきりと食卓の団欒が覗ける。長男でも日暮れ後は身も細るそうで、中学の頃は家族揃いでの夕飯を待たれているという具合だった。一家の生活の舵を担っているのがなんとなく嫌で、私はよく「先に食べておいてよ」と言って、たびたび茶入れの祖母にはぐらかされた。市外に進学し、祖父の迎えが常になったときはうれしかった。この頃になると帰宅は食事時を過ぎていることが多く、祖父も寡黙でそっけない人だから、誰にも待たれないところに自然に忍び込めるようになったのだ。決して実家の居心地が悪いわけではない。待つという行為の仰々しいところにふれて少々辟易していたのだ。
 おとといの晩はスーパームーンだった。出不精だから作業の片がつくまではとことんしりごんで、日を跨いでから玄関を出た。すると、山の端をくっきりと見せるほど皓々たる月が、敷き詰められた厚い雲のてっぺんにあった。
 地べたの男の子がうちを追い出されたのか、うちに辿り着く前だったのか、定かではない。彼の家族がどのように彼を待っていたのか、あるいはもとより家の粗相は問題ではなかったのか、それも想像に及ばない。彼は待たれることが不得手だろうか。スーパームーンは大々的に報道されつつも、人々の視線を待っていなかった。本来なら気も輝きも抜けてくる真夜中に私が素晴らしく思ったのがその証左だ。彼はそんなスーパームーンを目指す這子であった。その壮大な旅路に干渉せず、静かに横を過ぎてよかったと思う。

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