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過不足なく心と付き合い、好きを仕事道具として扱う

肉体は精神の奴隷でもないし、精神もまた肉体の奴隷ではない。

感情を過大評価も過小評価もしない、これを理解した1年だったのでその理解を書き記しておこうと思う。

ある程度、脳について学び、神経科学の心得のある人なら、我々に自由な意志というものが無いことは常識になっている。脳の中の物質の連鎖反応がおき、それに従い我々は意思決定をする。感情や気持ちといったものは、その際の中間生成物みたいなものだ。

だが、この事実は、我々が感情を蔑ろにして良いことを意味しない。

そんな事で?!という些末で大きな理由

スカイ・クロラという小説では、作中最強の敵の過去が明かされる。かつては戦闘機を自在に操る強力無比な同僚だったが、主人公の所属する陣営がその戦闘機の製造を辞めた時に、より自分の腕にあった戦闘機を求めてあっさり敵対陣営に移籍したのだ。

これを読んだ当時は「え!?そんな事で?!」と思ったけど、その後様々な経験を通して、たいがいの物事は他人から見れば「そんな事」で動いている事に気付いた。

たとえば出勤時に見る花壇が気に入ってるというだけで、あまり条件の良くない職場に忠義を尽くす人もいるし、その逆にささいな改修で花壇が消えてその人をそこにつなぎとめていたものがプツンと切れる事だってある。もちろん、そんな些細な事が原因の全てなはずがない。

でもそんな「些細な事」で気づいてしまうんだ。あ、今、幸福だな、とかあ、今、楽しくないな、とか。引き止める側はいつだってこう言う、「そんな事、言ってくれたら簡単に変えられるから留まってくれ」、と。

でもそうじゃない。些細な事は自分の素朴な感情に気づくためのきっかけに過ぎず、楽しくない事に気づいたあとでそのきっかけを埋めたところで、気付きそのものは完成してしまっている。さらに言えば、言わなければ対処してくれないという呆れにもつながる。

快・不快の判断は損益重視の思考に優先する

「些細なこと」をきっかけとして、人は大きな決断に至る。この気づきは自分でも少し驚きだった。

要求を口に出すだけなら子供でもできる。声を上げなければ何もしてもらえないと嘆くのは、「箸を持たねばいつまでも口に料理が入らない」と嘆くかのようなものだと思っていたからだ。

今までの価値観と合わせて考えると、確かに察してもらうのを待つのはたしかに傲慢だ。世界は、あなたの事を四六時中慮ってくれる母親ではない。そして、赤子のような待ちの姿勢は、「居心地の悪さに気づくのを無限に先延ばしにされる」という弱点を併せ持つ。

だがその事は「居心地が悪い」というセルフモニタリングを曇らせる事により、明確な不快な時間をできる限り先延ばしにする作用もある。ではその行為に何らかのメリットはあるのだろうか。

たしかに効率性を求め、常に期待値を最大化する選択肢を取り続ける、合理性の権化であれば全くメリットはないだろう。要求を口に出す事で多少不快になっても、それを解決して得られる報酬か、あるいは決裂してよりよい環境に移るタイミングが早まるだけだ。

だが、実際にはいくら損得勘定だけで動くような人間でも、相場より高給だが劣悪な環境と、相場より割安だが快適な環境では継続して働きたい気持ちは大きく変わってくる。結局のところ、本質的に何かしらの損益があったとしても大抵の人は直感的に損益より快・不快を優先する。

スカッとジャパンのように気に食わない人にぎゃふんと言わせる事は、人類の普遍的な娯楽なのだ。舌禍で何人もが職を追われたり命を落としても、人類はその娯楽を決して手放さない。

心は理性の副産物か

それまでずっと感情は理性の副産物と思っていた。

だが、ここにきて理性が感情の上位に来ると言う価値観は修正せざるを得ない事に気づいた。結論はだいぶ刺激的になるので少し持って回った言い方をする。

尿は腎臓で作られる。尿を測定すれば腎臓の調子がある程度わかる。じゃあこの事から腎臓の仕事は尿を作る事といえるか?否。腎臓の仕事は体内の酸塩基平衡の調節と老廃物の除去こそが本質であり、尿はその副産物に過ぎない。さてここで視線を脳に向けよう。

意識が脳で作られる事に異論はない。意識を精査すれば脳の調子がわかる。だが、脳の仕事は意識を生成する事といえるか。少なくとも、進化論的には違うだろう。脳の本質は「より効率的に行動し、生存確率を上げ、子孫を反映させる」ことにある。となると意識はその過程で生まれる副産物と言えるだろう。

ここまで来てもなお皆が口には出せない、その最後の一線を私が代表して越えよう。

理性も感情も、結局は脳活動の生み出す排泄物であり、そのどちらを優先するか、あるいはありがたがるかの問題でしかない。

でも卑下するなかれ。世の中には糞尿愛好家がいるように、理性や感情を大事にする人がいてもいい。

我々が糞尿と一括りにするものでも排泄物愛好家にとっては大きな違いがあるように、上位概念からしたら一括りの脳の排泄物であっても感情や理性には我々にとって大きな違いがあり、それぞれなりに大事にするやり方がある。決して感情は理性の下僕ではなく、むしろともに脳から排泄された対等な存在だ。

感情を奴隷化せず、感情に奴隷化されず

出勤時の花壇も同僚の挨拶も、言ってしまえば被子植物の生殖器の彩度が今日も高いとか、同僚の口輪筋の持ち上げ方や声帯で発生する音波が特定の特徴を満たしているとか、そういう即物的な利益になりづらいものに過ぎない。

しかし現に我々の気持ちに無視できない影響を与えている。そのような些細な物質的特徴や、あるいは物質ですらないもの、義理や忠義というものは、一見すると割に合わない仕事に人を向かわせる。それもウキウキで。

これこそが「自分の感情を大事にする」という排泄物愛好趣味のなせるわざでなければ、なんだろうか。そしてまた、他人の感情を大事にする事もまたリアルの排泄物愛好者よりは十分に理解可能な行為なので、自他の感情も尊重していける。

ここまでは感情を過小評価しない事を考えてきた。次に考えるのは、感情の持つこの特徴は、気を抜くと容易に我々を奴隷化してしまうということだ。

すでに認知科学では報酬は仕事の充実感を奪う事は判明している。
同じつまらないタスクを与えても、少ない報酬を与えられた方は、高い報酬を与えられた人よりもやり甲斐を感じる。

これは認知的不協和を避けるという脳の働きで、こんな低い報酬しかない上につまらん仕事だと耐えられないので、脳が勝手に(これは楽しいワークなんだ)と自己暗示しているような現象だ。あるいは逆にこれだけ報酬もらってるから仕事自体はそれなりに不快なものなんだろうな、というしなくても良い類推を働かせることもある。

この特徴はブラック企業を駆逐したい人間にとってはショッキングな事実だが、「同じ仕事をする時より待遇が悪い方を選べ」ということでは断じて無い。

感情がさき、仕事はあと。

むしろ仕事と給与は切り分けて考えるべきなんだ。
もちろん、食ってくための仕事(≒いわゆるフルタイムの正規雇用もしくはその類似)と考えるとどうしても給与とは不可分だし、キャリアの話となるとすぐみんな年収の総額を話題にしたがる。

けど、本来は総額ではなく、その額面を手にするために受ける不快もしくは快をベースに考えるべきだろう。つまり、理想的には、食ってくための「仕事」の割合をできる限り低くして、「娯楽や趣味の時間に結果としてなぜか賃金が発生している」状態を作るのが理想といえる。

それは絵に描いた餅、バラモン左翼の寝言だ、という声も聞こえてきそうだがもうすこしお付き合いいただきたい。

介護犬が障害者の世話するときに、何も仕事を与えず過ごしている方がムスッとする。人間からすればこきつかってるように何でも頼む方が犬は満足していると聞いたことがある。これは人間でも十分に当てはまるように思う。

お飾りとして1日座ってるだけでハンコを押すだけの高給な仕事より、まるで牧羊犬が走り回ったり群れを動かしたりするような一日を送って、てんてこまいしているような日々の方が充実感も達成感もあったりする。

これらを踏まえると、仕事の一覧の中からこれは好き、これは嫌いで選ぶといずれ報酬の魔力にまけてつまらなくなる危険がある。でも最初に好きな事一覧の中で多少なりとも対価が発生するものを見つけられたらかなりラッキーだ。

好きも仕事道具のように研いでおくこと

もちろんそれだけで食ってけないなら食うための仕事はする必要がある。だが、仕事の息抜きやリフレッシュするための娯楽の時間でなぜか賃金が発生している、という状態はかなり強い。何もそれは副業とは限らない。

たとえば報告書を書くのは仕事だけど、コードを書いたりパワーポイントを作るのは娯楽という人は案外多い。実際、自分がパワポを作る時参考にさせていただいているトヨマネ氏は講演で「会社での仕事が終わると私用PCを開いて私用パワポを作る」という主旨の発言をされている。

好きを仕事に、というと手垢の付いた表現になるが、そこまで大上段に構える必要はないように思う。ただ好きなものを忘れずにいて、好きなものは好きだと自分で胸をはって言えるようにしていれば、いずれ、その好きのどれか一つくらいは仕事になりうる。あなたから見て娯楽なのに、他人からみたら仕事に見える何かが。

むしろ恐ろしいのは好きなことをしなくなり、自分が何を好きだったのか忘れてしまう事だ。高給でも苦痛な仕事は長続きしない。損得よりも快・不快を優先しがちな人間なのに、もし自分の人生から快が消えてしまえば、不快の中の利益にはなんの価値もないのだから。

そしてもう一つ。多分自分の持つ好きなことに対して、好きかつ仕事になる事はとても少ない。だからこそ、自分の「好き」には自覚的になって、そして錆びぬよう鈍らぬよう、仕事道具のように常に研ぎ澄ませておきたい。

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