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正解の人生を選ぼうとして最高の人生を捨てていないか?

あけおめと老若男女が祝い合う令和5年のログインボーナスはそろそろ飽和してきた頃だろう。だから口直しに今日は正月らしくない話題、「失敗」の持つ有益さについて話そうと思う。

多くの人は「成功から得られたこと」は声高にアピールしますが、「失敗したことのある人にしか分からないこと」はなかなか表に出てきません。
「失敗の経験」は自分の経験からしか得られない。

前回の往復書簡でハカセはこのように指摘した。「失敗の経験」は自分の経験からしか得られない。そして「『失敗』がその人の人生を唯一のものにする」、と。

これはその通りだと思うけど、この構造は失敗以外にもさらに一般化できるような気がするので掘り下げてみよう。

正解は多様性の乏しさゆえオリジナリティが透明化する

いつもながら直接扱うのが難しい時はその逆を考えてみる。正解を追う事の毒性だ。

正解選びがもたらす毒の一つが、挑戦をしないまま、何もなし得ない事とハカセは指摘したけど、「『失敗』がその人の人生を唯一のものにする」と合わせるともう一つの毒性も浮かび上がる。

オリジナリティの喪失である。

山手線に乗ると無数の「正解」が提示される。

英語を話せ、婚活しろ、マンションを買え、ビジネス書を読め、投資をしろ、毛を抜け、毛を生やせ……etc,etc

偉大なる人類の叡智である高度に産業化された社会は、何も考えなくても目を閉じ口を開いていれば、「正解」を口に運んでくれる。口に入るものは、誰かが考えてくれた最大公約数みたいな「正解の人生」の劣化コピーだけど。

この構造は一概には否定できない。ファスト映画を見て攻略本を見ていれば「とりあえず」正解しておく事はできる。同じように、手垢のついた劣化コピーでも理想と崇めてありがたくトレースしていれば、「とりあえず」流行りのものを着て見て、着て、聞いて、買って、食べていれば、まぁおそらくは誰から見ても人と変わらない人生は送れるだろう。

だが、それだと人生がただの作業、ただのクエスト処理の無限の繰り返しになる。しかもそういう「正解」は往々にして多様性が乏しいため、よりいっそう隣人たちと均質化し、オリジナリティが透明化していく。

評価基準を外部に置かない

均質で透明な人間を良しとしないなら何が必要なのか。透明化の原因は「誰から見ても人と変わらない人生」を求めるところにあり、そして人をそうさせる原因はあらゆる評価基準を外部に置いている事だ。

たとえば皆が行列しているなら美味しいお店だろう、とか、留年は悪いことだから試験を落とした自分は負け組に違いない、とか。

そういう連想ゲームは多少は事実を類推するのに役立つ事はあっても、判断基準をそこに丸投げしてはならない。判断されるという事は値踏みされるということだ。一度判断基準を手放したら、自分に不利な基準だっとしても無批判に受け入れるようになる。

判断基準を常につかんで誰かに奪われない方法はいくつかあるが、そのうちの一つは「失敗」をアンカーに使うことだ。流行や他者の価値観という潮流に流されない錨として自分が過去におかした「失敗」は高い性能を持つ。

キズは本当に忌避されるものか

さて、なにか一つ愛用している革製品を思い出してほしい。革財布、革靴、レザージャケットなんでもいい。3つの質問をする。

質問1。買った時と同じ状態だろうか。それとも傷がついているだろうか。

質問2。傷がついているとして、買った時の値段で売れるだろうか。

質問3。大きく値下がりしているとして、手放したいだろうか。

ある程度の期間愛用しているものなら、何かしら小キズやシワはついている。手入れしていれば経年変化してきれいな飴色に輝いていたり、ツヤが出ていたりもするかもしれない。でもプレミア品を除けば、購入時の値段では普通は売れない。

買った時は店頭にならんだ同じような製品の一つでも、それらとともに過ごした時間は無二のもので、またその時間が刻まれた愛用品を安値で手放したい人間もいない。

これは皮革製品に限らない。人工の素材が時を重ねる事で起きる変化もまたユーザーにとって無二であり、また自分にとっての価値が他人にとって理解されない事も天然素材と同じだ。

バイクのオイルタンクも、ノートPCの削り出したアルミの表面も、使ううちに無数の小キズがついてくる。キズのない工業製品はオリジナリティのかけらもない交換可能な代物だが、数々の冒険や経験を乗り越えるうちにキズだらけになる。複製可能な既成の工業製品の中で、そのキズだけが複製不可能なオリジナリティとなる。

キズは一般には忌避される。それは交換可能なものから交換不可能なものに変化する一方通行であり、交換によって価値を規定する体系においては価値の毀損を意味するからだ。

キズ=失敗としてのアナロジー

だが、交換を介さずに自分が価値を規定する体系、たとえばさっき質問したように、売るつもりのない愛用品においてはキズは価値を毀損しない。

はてさて翻ってみると、モノにかぎらず、人は自分自身のキズも避ける。それが肉体面であれば傷痕だけでなく、そばかすからホクロに至るまで化粧やフォトショで消そうとする人は多く、シワやシミを避けるために並々ならぬ努力を永遠に続けている。

しかしこの問題は肉体面以外ではさらに深刻だ。名声にキズがつく、経歴にキズが付く、社内での評判にキズがつく、と人はとにかくキズを恐れる。失敗と言い換えても良い。規格化された善良な「社会のみんな」との差異はすべてキズとみなされる。

こうなると失敗が価値の毀損として認識される。しかしこの評価基準は「不特定多数の誰かに」「何にでもなれる交換可能なパーツとして」買ってもらう事を前提とした時の話である。特定の業種に、何らかの職務を期待されて転職する時に過去の失敗が元で人生が詰むことはそうそうない。(横領などの刑事罰やハラスメント加害は失敗ではなく罪なので除く)

最高の人生とは傷一つない人生か?

そこで失敗が意味を持つようになる。成功はどれも似た形をしており、そして広く世に認知されている。だが、失敗は自分だけのものだ。長年愛用した革財布の上に輝くツヤのように、失敗こそが、自分を彩り、無二のものにしてくれる時間経過の体現者だ。

時間が経験となり、経験をもとに自信をもって判断が下せるようになる。いついかなる時も、まわりに流される事なく、堂々と決断し、自分の判断基準がブレる事がない。それは価値基準を失敗・時間・経験という形で自己の中に持っているからだ。

そして価値基準を外部におかないことで、誰かの考えた最高の人生をトレースするできの悪い猿真似ではなく、自分自身が胸を張って最高だと考える自分の人生を生きる事ができる。

攻略本をたどるような「正解」続きの人生は、まあまあな人生にはなるだろう。でもそれは攻略本を書いた人が理想とした人生の劣化コピーだ。正解であっても最高な人生ではない。

これこそが、過去の失敗が高性能なアンカーとなる理由だ。確かに傷一つ無い立派な経歴はどこへでも潜り込むことのできるフリーパスにはなる。だがあくまでもそれは遊園地の入場券みたいなものだ。遊園地への入場はそれ自体が目的ではなく、アトラクションに乗ったりショーを見たりすることが目的である。誰にでも日没が来るのに、日暮れまでかけてプラチナチケットを用意して閉園直前の遊園地に入る事こそ気をつけないといけない。

さてここまで3,000字以上つきあわせてきたけど、これを覚える必要もないし、なんなら明日には忘れてしまってもかまわない。だってこれは私が考える最高な人生について書いた文章で、あなたの考える最高とはまた異質なものかもしれないから。

成功や失敗という評価軸がどうでもいいように、私が考える最高な人生というものが、あなたにとってまたどうでもいいものかもしれない。

だからこそあえて約束しよう。

これを読んだあなたも、私も、それぞれの形で最高な2023年にしよう。

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