見出し画像

森歩きの楽しみ

こんにちは。今回から日本花卉生産株式会社のnoteアカウントで樹木に関する記事を書かせていただくことになった、三浦 夕昇(みうら ゆうひ)と言います。樹木に10代の大半の時間を吸い取られてしまった19歳です。現在は、ニュージーランドの学校で環境学を学んでいます。よろしくお願いいたします。
 
初回の記事では、「森歩き」の魅力について、書いていこうと思います。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
僕は昔から、現実世界と異世界を行き来する、という内容のファンタジー映画が大好きでした。例えば、ナルニア国物語とか、コララインとボタンの魔女とか、ああいう感じの物語です。タンスの奥に、未知の異世界に繋がる秘密の通路があるなんて、設定が秀逸すぎる…
 
「現在私たちが住んでいる世界とはまた別の、”もうひとつの世界”がどこかに存在する」という発想には、底知れぬロマンがあります。
僕以外にも、異世界探検系の物語に心惹かれるという方は多くいらっしゃるのではないでしょうか。
それは何も現代だけの話ではありません。
 
世界を見渡してみると、さまざまな文化圏の人々が、古来からこういった”異世界への空想”を膨らませていたのがわかります。中には、”空想”が”信仰”という形に昇華しているケースだって存在します。
 
例えば、奄美・沖縄には、海の彼方に神々や死者が集う理想郷「ニライカナイ」があるという信仰がありますし、古代エジプトには、善良な死者は長い旅を経て「アアル」と呼ばれる豊穣な楽園にたどり着ける、という信仰がありました。
 
現実世界と異世界を行き来する物語も、世界各地で語り継がれています。古事記には、イザナギ(国産み神話に登場する男神)が、亡くなった妻イザナミを追いかけて黄泉の国に出向き、そこである失敗を犯して恐ろしい出来事に遭遇する物語が載っています。有名なギリシャ神話「オルフェウスの冥府下り」も、亡くなった恋人を追いかけて天界に出向いた詩人が、最終的に重大なミスを犯して壮絶な最期をとげる、という超バットエンドな物語です。
 
こういった、異世界の存在を意識した信仰・思考は、「他界観」と呼ばれます。世界中の文化圏で、他界観をベースとした風習が見られるのは、「ひょっとすると、この世のどこかに未知の世界への入り口があるのかも…」という空想に、全人類が虜になるような、ものすごく普遍的なロマンが詰まっているからなのではないでしょうか。
 

日本の他界観


日本の国土の約70%を占めている「森」という空間は、日本人の他界観を身をもって体感できる場所です。
 
海、山など、人の往来を遮断するような大きな自然物は、異世界との境界線と見なされる傾向があります。実際、日本でも、急峻な山、そしてそこに広がる森は、異世界と現実世界との”結界”とされ、古来から神聖視されてきました。

早朝の霧にけぶる四万十川源流の天然林(高知県津野町)。
こんな景色をみると、深山の奥には、人智を超えた何かがある、という考えにも納得してしまう。

木こり、炭焼き職人など、日常的に森に入り、森の資源を利用する立場の人々は、厳しい掟を守りながら森と関わっていました。

たとえば、窓木(幹の途中が二股に分かれ、その先でまた合流し、輪っか状になった幹をもつ樹のこと)には山の神が棲むとされており、その伐採は固く禁じられていました。また、年に数回ある「山の神の日」(頻度、日付は地域によって異なる)には、里の人間は決して山に入ってはいけませんでした。その日、山の神様が山に生えている樹の本数を数えるため、仮に山に入ってしまうと、自分自身も「樹」として数えられ、二度と森から抜け出せなくなってしまうのです。 

神社境内に残された「鎮守の森」。その地域の本来の植生が保存されるため、
森林生態学の重要な研究フィールドとなる。(山梨県北杜市)

 神社の裏手には原生的な森が「鎮守の森」として保存されているケースが多いですが、これにも山の神様への信仰が関係しています。普段奥山に住んでいる山の神様は、ときどき神社裏の鎮守の森に降り立ち、村を守ってくれると考えられてきました。鎮守の森は、”村にやってきた神様をお出迎えするための森”だったのです。それゆえ、そこに生える樹をむやみに伐ることは許されていませんでした。

 真っ直ぐ育つスギが神木になるケースが多いのも、スギが天空、すなわち神様の国に最も近い場所にまで梢をとどかせる樹木であり、神様はスギを伝って地上に降りてくる、という信仰があったためです。 

杉の御神木。御神木は”神が宿る樹”であり、その扱いには細心の注意が払われた。
(奈良県東吉野村)

 現実世界と異界との境界線に横たわる深い深い森には、神の他にも、異形の物怪も棲みついている、とされていました。つるべ落とし、キジムナーなど、森にまつわる妖怪伝承は、探せばいくらでも見つかります。

 昔の日本人は、森を「人間の理解を超えたことが起こる場所」と見做し、畏れていたのです。 

午後の春日山原始林。晴天なのにも関わらず、林内は暗い(奈良県奈良市) 

急な斜面がそそり立つ深山に、樹々が鬱蒼と茂り、自分の前面の景色をダークな緑一色に染め上げている…。薄暗がりが溜め込まれた木立の向こう側に何があるか知る術は何も無い…交通網が整備される前の日本の山岳地帯には、こんな景色が延々と広がっていたのです。ましてや、地理的な知見もおぼろげだった時代。山奥深くで荘厳な雰囲気の樹海に迷い込んだ時、「この奥は、異界の入り口と繋がっているんだ…」という空想が生まれるのも、ごく自然なことなような気がします。 

霧の魚梁瀬杉天然林(高知県馬路村)

上質な孤独感


僕は樹がいっぱい生えていればどんな場所でも好きなので、近所の緑地から野山、深山まで、”森”と呼べるような光景が広がっていればあたり構わずほっつき歩いています。しかし、やっぱり一番興奮するのは、深山の原生的な森を歩いているとき。 

原生的な森では、大木たちが好き放題威厳を振り撒いているため、とてつもなく厳かな空気を感じることができます。大木の群れの中に飛び込むと、”ここは樹の陣地なんだよ。余所者は入ってくるんじゃねえ”と威圧されているかのような気分になります。それぐらい、大木が放つオーラは力強いのです。

今にも歩き出しそうな板根でこちらを脅かしてきた、アコウの大木。(高知県室戸市)
樹高50m以上のスギの大樹が生い茂る、魚梁瀬杉天然林林内。

 大木の威厳で満たされた荘厳な原生林内では、普段人里に居る時には絶対に感じられない"上質な孤独感"を感じることができます。

 周りに人の気配はおろか、人工物すらいっさい無い。あるのは大木の幹、煙たいぐらいに濃い緑の葉…。こんな風景の中に身を置くと、自分と人間の世界との縁が完全に切られてしまったような気がするのです。

北日本の深山に広がる、原生的な落葉広葉樹林。(青森県奥入瀬渓流) 

深い森の奥で、無愛想に枝を繁茂させた樹々に一面を取り囲まれると、その圧迫感に押されて、自分が森の一部に取り込まれてしまったような気分になります。「もう、この森の深みには抗えないよなあ。」と、白旗を揚げたくなる。そんな時に自分ができることは、何も考えず、ただただ森の洗練された空気に身を任せることだけなのです。 

四国山地の核心部、霧に囲まれた尾根沿いの針葉樹林。
モミ、ツガ、コウヤマキの巨木がいっぱい。(高知県馬路村)

 一切淀みがない、濃厚な緑色の景色の中をずっと歩いていると、前述の”上質な孤独感”がどんどん蓄積していきます。そして、”森の奥は、異界と繋がっているんだ”という伝承が、妙な現実味を帯びて自分の頭の中に降ってくる。もしかしたら、この森をずっと進めば、本当に未知の異世界に行けるんじゃないか。そんな妄想が膨らんできて、ゾクっとします。その瞬間が、とてつもなく愛おしいのです。だって、この時僕は、森の威厳を全身で感じられているんですから…。 

森は”異界”であるという考え方は、結構的を得ていると思います。 

例えば、この斜面を下るとどこに辿り着くのか…を想像するのはかなり難しい(地形図を見れば一発でわかるだろ、みたいな話ではなく…)。樹々の枝葉が景色を完璧に遮断しているので、その向こう側に何があるか、誰にも確認できない。逆に言えば、この景色の向こう側に、未知の世界があったって全然良いのである。そういうロマンが、森という空間の面白さだと思う。      (奈良市の春日山原始林にて)

 ”何気なく美しい”が一番楽しい


ここまでの内容を読んで、「いや、怖えよ」と思われた皆様、申し訳ありません。 

よくよく考えると、”森の奥が異界に繋がっている”というアイデアに興奮するのは、人生のベクトルが森にしか向いていない一部の狂人(僕も含む)だけでしょう。普段森に触れる機会があまりない方にとっては、”上質な孤独感”はただの”遭難の恐怖”です。

 うむ、森の魅力を伝えたいのに、ちょっと失敗…しかし、大丈夫。森は、ただ不気味なだけの場所ではありません。森には、初めて訪れた人を優しく歓迎するような”懐の深さ”も、ちゃんと持ち合わせているのです。

 僕は、森のミステリアスな一面が好きであるのと同時に、「森って一番楽しい観光スポットだよな」とも思っています。だから、特に旅行好きの人に、森の楽しさを伝えたい‼︎ 

新緑のコナラ林。破裂するような眩しい緑色を、
何の前触れもなくぶっこんでこられると、こちらも戸惑ってしまう。(滋賀県高島市)

世の中には、数多くの絶景スポットがあります。〇〇展望台とか、〇〇岬とか……。もちろん、そこで鑑賞できる景色は絶賛に値します。ああ、綺麗だなあ…と純粋に感動できる。

 しかし同時に、一抹の”物足りなさ”を感じること、ありませんか?旅行ガイドで特定の観光名所を見つけ、「良さそうだなあ」と思っていざ訪問してみると、「確かにめっちゃ綺麗だけど、こんな感じかあ」とどこかサバサバした気持ちでその場所と接してしまう。旅行が好きな人なら、こんな経験に遭遇したことが少なからずあると思います。”がっかり観光地ランキング”は、まさにその典型例です。 

有名な絶景観光地に行った時に感じる”物足りなさ”の原因は、「知らず知らずのうちに”受け身の旅”をしてしまっている」というところにあると思います。その観光地が有名になっているのは、過去に多くの人が同じ場所を訪れ、同じような高評価を下しているからです。有名観光地巡りは、ある意味過去の旅人の感性にそのまま乗っかる行為であると言えます。だからこそ、その絶景を目の前にしたときに、”景色をただ消費しているだけ”、というような気分になる。 

もちろん、旅のスタイルは人それぞれです。有名観光地巡りが悪い、と言っているわけではありません。ただ、それに満足できない人も一定数いるはず…。 そんな人たちにお薦めしたいのが、森歩きです。

木曽ヒノキの天然林を縫う、赤沢自然休養林の遊歩道。
こういう小道を歩いているときが、一番楽しい 。

森の主要パーツである”樹”は、なかなかに面白い奴らです。一見すると地味で、つっけんどんに突っ立っているだけに見える樹木たちですが、付き合ってみると、彼らはめっちゃキャラが濃いことに気がつきます。

 まず、樹木の外見(僕は”樹姿”と呼んでいます)は、ものすごく個性豊か。 

スギやヒノキのように、スリムな幹をひたすら直立させ、自らのスタイルの良さを鬱陶しいぐらいに披露してくるやつもいれば…

樹高50mに達した、樹齢250年のヒノキの大木(奈良県川上村) 

ずんぐりむっくりな幹を愛用し、老樹ならではの渋みを漂わせる、スダジイみたいな強面もいます。

スダジイの巨木。強面のおっちゃんのような迫力。(静岡県島田市) 

美白な樹皮・繊細な枝ぶりで優しげなムードを醸し出すブナと、癖の強い枝ぶり・バリバリに剥がれた樹皮でこちらを威圧するトチノキと同時にマッチングすると、「樹にも性格があるんじゃないか」と思ってしまいます。 

トチノキの巨木(上、山梨県北杜市)と、ブナの巨木(下、岡山県西粟倉村)。
どっちの樹姿がお好み?

 降水量が豊富な日本は、樹木の生育にうってつけな土地。総勢1100種にものぼる樹種たちが、それぞれの個性を存分に発揮しながら、森であなたを待っています。そして、彼らが披露してくれる樹姿の裏には、必ず興味深いストーリーがある。

 それぞれの樹種の魅力あふれる樹姿が、幾重にも折り重なり、味わい深い風景を創り出して、森という空間を構成している。いろんな森を歩き、バリエーション豊かな景観に触れるたびに、樹木の社会構造の精巧さに感心させられます。

美肌樹皮の色気が炸裂した、ブナの二次林。(秋田県藤里町)
直立するヒノキに午前の光が当たって、神聖な雰囲気を作り出す木曽のヒノキ林。
(長野県木曽町) 

上記でご紹介したような、樹木が素となる景観には、絶景観光地ほどのインパクトの強さは無いでしょう。それゆえ、彼らの美しさを拾い上げ、事細かに解説するようなガイドブックはありません。でも、皆”何気なく美しい”。ゴージャスさはないけれど、「ああ、なんかすごく良いなあ、この感じ」と、じんわりと味わえるような魅力を持っているのです。森の中で樹木が創り上げた美観に取り囲まれると、「自分はこういう場所に身を置くために生まれてきたのだな」とさえ思います。 

前述のように、樹木が展開する美観を逐一拾い上げる旅行ガイドブックはありません。そのため、樹木の”何気ない美しさ”を堪能するためには、自分で森に入り、自らの感性を使って森の景色を”収集”しなければいけません。
この過程は結構大変ですが、お気に入りの森林景観を見つけたときの喜びは何より大きい。

暗い照葉樹林の林内に、午後の西日が差し込む…。

 だって、その景色は世界で自分しか知り得ないのです。森を歩き回り、森の深みにどっぷりと浸かった自分だからこそ出会えた景色。その鑑賞を乱す者は誰もいません。”自分だけの景色”を独占し放題です。この感覚にはなかなかの中毒性があり、僕は立派な森歩き中毒患者。更なる刺激を求めて、未知なる美林への旅をいつも計画しています。 

森を歩いて自分で見つけた景色は、絶景観光地の景色と比べると格段に味わい深いと思います。なぜなら、景色に出会うまでの過程が、”能動的”だから。高級洋食店でお金さえ払えば出てくる看板メニューのカレーと、野外キャンプで火を起こし、一から作ったカレーだと、後者の方が美味しく感じる、というのと似た感覚です。(もちろん、これも人それぞれですが…)

 近年、”健康に良い”という理由で森林浴を始める人が増えてきていますが、ただ単に森を歩き回り、血中のヘモグロビンやセロトニンの分泌量ばかり気にする、というスタイルは少々勿体ない気がします。僕は、森歩きの一番の楽しみは”樹々が創り出す複雑かつ緻密な空間で、自分の感性を最大限活用して景色を展開させる”という行為そのものに宿っていると思うからです。

 旅行や森林浴のスタイルは、人それぞれですが、もし、いまの自分の旅行スタイルに物足りなさを感じている方がいらっしゃったら、樹に会いに森にでかけるのはいかがですか? 

森歩きは、とてつもなく自由だ

つまるところ、森歩きはとてつもなく自由度が高い趣味なのです。

 森は、現代の文明社会と最も縁遠い空間です。それゆえ、冒頭で触れたようなミステリアスな一面があり、時に人々から畏れられました。反対に、普段の日常生活では絶対に出会えないような、珠玉の景色を提供してくれる、という優しい一面もある。 

ここまで相反する二面を持ち合わせている場所って、なかなか無いと思います。 

森という空間でどう過ごすか。その選択肢は、無限大です。森の怪奇的な一面に触れてみて、先人たちの畏怖の念を追体験するのもよし。自分のお気に入りの景色を求め、林内すみずみまで探検するのもよし。許可されている場所であれば、釣りをしたり、山菜をつんだりして、森が産み出す素敵なギフトを舌で味わうのも楽しいかもしれません。

 森歩きに、こうしなければいけない、というルール・型は存在しないのです。極めて複雑かつ多様な側面を持つからこそ、どんな人が来ても思いっきり楽しめる。 

朝日に輝く木曽のサワラ林。 

ということで皆様、もしよろしければ、今度の休日、ぜひ森にお越しください。森に棲む樹木たちが、あなたを退屈させることなどあり得ません‼︎と、僕は自信を持って言えます。
 

<最後に…>


そうは言っても、森という空間はめちゃくちゃ複雑。いくら森歩きが自由な趣味だとは行っても、初めて森に行った方はどう楽しめばよいのか、困惑するかもしれません。そんな方が、”自分だけの景色”を探すお手伝いをできるような記事をこれから書いていきたいな、と考えています。森で樹が創り出す景色の裏には、文化的・自然科学的に興味深いストーリーが多数隠されています。そのストーリーを開封し、森という空間の楽しさをさらに増幅させる、というのが今の僕の目標です。
森が好きな方も、そうでない方も、これからの記事をお楽しみいただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?