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束の間の休息〜プラトロス〜


平日の午後のカフェに客はいなかった。マナミは自分のためにコ-ヒ-を淹れてカウンタ-で本を読み始めた。アンティ-ク調に調えられた店内で額縁の中のテディ・ベアは今日も笑顔で見守ってくれる。ページをめくりながら、遠い歴史の彼方に消えた王国ノバルディアについて考えていた。その本には女王クリニクスに仕える歴史家と密偵について記録されいた。

~プラトロスの日記~
私は忙しい合間を縫って郊外の海岸に出掛けていた。海風が気持ちいい。私はいつも通りに彼が国外で仕入れた酒を飲んでいる。私が彼については変装の名人で元盗賊だと云うことだけを知っている。今日の名前は行商人のジェイコブだ。王宮に仕える歴史記録係の家系に生まれた私には奇妙に思えるが、盗っ人にも矜恃があるらしい。「決して他人を傷つけず、裕福な人物から金品を無期限で拝借する」ことを彼は自分への戒めとして決めているらしい。そのおかげで彼はマーガレット女王陛下の寛大な計らいで密偵として生き延びることができた。彼はよく両手を差し出して、こう言う。「この手をご覧なさい。汚れていない、きれいな手でしょう。血を流していないからです。私はキレイな仕事しかしませんでしたよ。」
彼の手のひらはギズだらけだ。触ってみると節くれだって、ゴワゴワだ。親指も奇妙な程に外側に反り返っている。見た目よりも遥かに手と指先は老けているように見えた。お世辞にも綺麗ではない。彼にそれを指摘すると「家人にバレないように壁をよじ登ったり、錠前を外したりするためには自分の手を使うしかない。そのせいですよ。私の手はきれいですよ」と彼は自慢気にその話をする。
彼は任務の度に名前を与えられている。彼の本名を知るのは現在の女王陛下クリニクス候とその最側近だけである。海岸で私を見つけた時、外国で仕入れた珍しい酒をご馳走してくれる。酔うといつも同じ話をする。
「任務の途中はいつもこの任務を早く終わらせてしまいたいと考えていますよ。しかし、宮廷の密偵溜まりの狭い場所に閉じこもっている時、あのゆとりのない時間に戻りたいと思っております。そして、なぜでしょう?ここであなたと酔っ払っている、この時間がが本当に好きです。しかし、ここに留まっていてはいけないとも思います。」
「確かにその通りだ。」と私は応じた。私も彼とのこの時間を貴重なものだと思っている。しかし、いつまでも彼とここで酔っ払っているのも違うと思っている。彼は任務についても差し障りのない範囲で教えてくれる。
「南国の豪商の家に住み込みの雑用係として潜入したときです。その豪商が過労で別荘に療養しました。その時に私が使いとして番頭さんの手紙を彼に届けたら、その豪商の別荘には行きつけバルの店主の娘がいたんですよ。彼の愛人です。奥様の目が届かないことをいいことに身の回りの手伝いをしていたようです。さらに間が悪いことに豪商の奥様が婦人会の会合をキャンセルして、別荘に足を運んだのでございます。どうも出来過ぎた話です。ファーストワイフ同盟とかそんなものかも知れません。彼の浮気を掘り下げてみたい気持ちはありました。私には任務があります。軽く流してしました。その豪商は慌てて私にバルの娘の愛人の恋人のふりをしろと云いました。変装は得意ですよ。しかし、その時は私は流れ者の雑用係です。雑用係がにわかで愛人に変装する。おかしいでしょ。本当に困りました。その愛人と連れたって、廊下で奥様とすれ違った時に「ラッケル(その時の名前はラッケルでした)も意外とやるのね。明日の夕方までにはお店に戻りなさい。急いで本宅に帰る事はありません。」と奥様が付き添いの女中に用意させたお金を私にくださった時はそりゃ困りましたよ。奥様と付き添いの女中が見えなくなったところで旦那様の愛人と相談して、口の堅い漁師の道具小屋に酒瓶といくらかの食料を調えてもらって夜明かしをしましたよ。その時に観た海岸からの夕日をあなたにも是非観てもらいたいですよ。とても美しかった。あなたの記録の片隅に残しておいて下さい。記録係なのですから。」と彼は目の前の夕日に杯を捧げながら、どこか遠くを見ているようだった。
私はその場所の記録をもちろん残しておいた。そして、我が偉大なるショーン陛下が覇権を握り、その海岸で夕日と粗末な漁師の道具小屋を観た。丸太で骨組みを造り、木の板を打ち付けて屋根と側面の壁を埋めただけの粗末な荒屋、潮風にやられてあちらこちらに穴が空いている。それは密偵のゴワゴワとした手を思い出させた。そして、彼の絶大な貢献を思った。しかし、それは公式記録には残せない。彼の任務は常に陰から陰に消え去る類のものだった。しかし、方法はあるはずだと考えていた。彼が愛人の恋人の振りをしたような邪道がどこかにあるはずだと考えていた。彼の生きた証を記録に留めておく、それこそが歴史を記録する私の役目のように思っている。

マナミは本を閉じた。そして、ドアベルが「チリン」と鳴って、来客を告げた。休憩時間は終わった。彼女はカフェの店長の顔に戻って、コップと氷の用意をして客が着席するのを待った。
#小説




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